父がどこかの女と消えてしまった。1970年、中学1年の冬だった。母は食品工場で働き僕は朝刊の配達を始めた。冬の寒さは身体の奥につき刺さる。何度も辞めたいと思った。
 3年生の夏休みに母が僕名義の通帳を見せてくれた。家計の足しにと渡していた新聞配達の給金が貯えられてあり、そのお金で高校に通うことが出来た。 卒業後は自動包装機製造の会社に就職した。
「これからは母さんを楽にしてあげられる」
 そう思っていた矢先、母は帰らぬ人となってしまった。 過労による急性心不全。やるせなさだけが残った。
 天涯孤独になった寂しさを紛らわすために一心不乱に働き、ふと気付いた時は干支が一回りしていた。同期で入社した同僚は早くに結婚して子供もいたのに、僕はといえば12年経っても結婚どころかお茶を誘う相手もいなかった。同僚に聞いてみた。
「あのさぁ、俺、この会社に入ってから女の子とは殆ど喋ったことがなくて、遊びに行ったこともないんだけど、どう思う?」
 自分としては何となく聞いてみたのだが、彼は一瞬ポカンとした顔になり、
「なになに安住君、安住君って仕事一筋で恋愛なんて興味ないと思ってたよ。もしくはホモじゃないかと。そうか、そうなのか、よかったよかった女の子に興味があったんだ。でも大丈夫、縁なんてその辺に転がってるもんだよ。その気になれば彼女なんて明日にでも出来るって」
 同僚は愉快そうに笑った。人のことだと思っていい加減なことを言うやつだ。 12年間、まともに女の子と話をしたことがない状態だってのに何で明日に彼女が出来るんだよ。
「う~ん、でもさ、これでも幼稚園の時は持ててたんだよ。周りは女の子だらけでさ、あっちでもこっちでも、ゆうすけ君ゆうすけ君って引っ張り合いだったんだから」
 過去に持て期があったことを言ってみた。しかし、
「馬っ鹿じゃないの、幼稚園児はまだ人間じゃないわ」
 一突きで倒されてしまった。働き出してから分かったことだが、この会社は8対2の割合で女性の数が圧倒的に少なかった。それでも新年会とか慰安旅行とか、何かしら近付きになるチャンスはあったのに、何の行動も起こさなかったのは同僚の言うように恋愛に興味がなかったのかも知れない。
「安住くんさ、鏡見ることある?」
 同僚が顔を覗き込んできた。
「なんだよ、鏡を見ない奴なんていないだろ。顔を洗った時に必ず見てるよ」
「ふーん、こう言っちゃ何だけどさ、頭ボサボサだし、服はよれてるし、靴も相当疲れちゃってるよ」
 頭から足先にかけてスーッと指を下ろされた。
「えっ、それは見かけが悪いってこと?」
「何だ、分かってるじゃん、妻を亡くして格好を構わなくなった男やもめって感じなんだよね」
「え~っ、俺まだ30だよ」
 結構なショックだった。高校の時は体育の授業の後やトイレの後は必ず髪を整えていたし、普段も少ない服を着回しながら身なりには結構気を遣っていた。だが働き出してからは仕事に気を取られ、容姿に気を遣うところまで頭が回っていなかった。
「そうか、なるほど、これじゃぁ女の子も近寄って来ないわけだ」
 鏡に映る自分の姿を見て苦笑いしてしまった。小綺麗という言葉も、小汚いという言葉も、後に週刊誌で知ったが、どうやら僕は小汚い人間に分類されていたようだ。


 それから数カ月が過ぎたある日、階段の踊り場で女子社員に声をかけられた。
「あのう、すみません、安住裕介さんですよね。私、3カ月前にこの会社に入った柴内真菜と言います。経理課にいます。よろしくお願いします」
 恥ずかしそうに頭を下げられた。 勤めていた会社が倒産し、職業安定所からこの会社を紹介されたという。新入社員の、しかも違う部署の新人から挨拶などされたことがなかったので、ちょっと戸惑ってしまった。
「あ、安住です。こちらこそよろしくお願いします」
 同じように頭を下げながら、なんで名前を知っているのかと不思議に思った。しばらくは廊下で会っても挨拶をする程度だったが、少しずつ短い言葉を交わすようになり、そのうち仕事終わりに食事に行くようになった。今ほど街灯が多くない時代で、帰りが遅くなった時はアパートの近くまで送って行き、彼女の誘いで部屋に上がるようになってからは、二人の距離は急速に近づいて行った。
 同僚に報告すると、
「だから縁なんてその辺に転がってるって言ったろ?」
 得意げに顎をしゃくられた。いつも適当なことしか言わないやつだったが妙に納得してしまった。
 互いのアパートを行き来するようになって1年が過ぎた頃、思い切って結婚を申し込んだ。
「もっと早く言ってよ」
 彼女はまぶしい程の笑顔で応えてくれた。自分にも家族が出来る。灯りがついた温かい家に帰ることが出来る。一日一日が有意義で、電柱でギャアギャアわめきたてるカラスの鳴き声さえも祝福の合唱に聞こえた。愛する人が出来るとこんなに満ち足りた気持ちになれるものなのか。彼女との未来を思い描き、僕は幸せの絶頂にいた。

 そんな浮かれ気分に酔っていた僕の顔から血の気が引いた。膨大な予算をつぎ込み、チームが社運をかけて完成させた新型の自動計量包装機に欠陥が見つかったのだ。何度も何度もテストを繰り返し自信を持って送り出した製品だった。自動包装機械は当時の成長産業であり、反応次第で海外の包装機市場にも打って出る計画だった。顧客からのまさかのクレームに開発も技術も騒然とな、売り込みに気を吐いていた営業活動もストップしてしまった。
 だが、ここで立往生している場合ではなかった。原因究明に向けての泊まり込み作業で、当然彼女とは会えない日が続いた。社内でも騒ぎになっていたので、彼女も大よその経緯は知っているはずだ。とにかく今の状態だけでも説明しておかなければと、作業の合間に電話を入れた。当然心配する声が返ってくるだろうと思っていたら、
「あら、そうなの? 知らなかったわ。そんなに問題なことなの?」
 肩すかしな言葉が返ってきた。僕の言ったことに相槌ちは打つが、自分からは何も聞いてこない。説明の仕方が悪いのかと思い、
「欠陥の原因が分からなくて部全体がピリピリしているんだ。最初の図面から見直しているんだけど、まだ時間がかかりそうで当分会えないと思う。落ち着いたら必ず連絡するから心配しないで待っててもらえるかな」
 早口で言葉を被せると、
「だから大丈夫だって、こっちも今ちょっと忙しい状態だから無理に連絡しなくていいからね」
 反対に早く電話を切りたいという感じだった。不具合が生じる前の日に話題の映画を観る約束をしていたが、急に問題が発生したため連絡なしにすっぽかしていた。それで腹を立てているのかと思ったが、彼女がそんなことくらいで怒るとは考えられない。しかしその理由を会って確かめている時間がなかった。電話のやりとりで話をこじらせると余計にまずいと思い、取り合えず電話を切って、解決後にちゃんと説明することにした。

 不具合の原因が判明したのはそれから2カ月経ってからだった。修復作業と事後の処理、顧客への対応などに多くの時間を費やし、ようやく出荷可能の状態に戻った時は更に数か月が経っていた。
 やっと彼女に会うことが出来る。勢い勇んで経理課に電話を入れた。しかし何度掛けても、
「柴内はただ今、席をはずしています」
 の繰り返しで、しまいに電話を取った相手から迷惑がられるようになった。当時は携帯電話などという便利な物はなく、僕のアパートの部屋にも彼女のアパートの部屋にも固定電話がなかった。 デートした日は別れる前に次に会う日を約束し、緊急の場合は会社の電話か、もしくはアパートに帰ってから管理人室の電話に呼び出しをしてもらっていた。
 だが、管理人の呼び出しにも彼女は出なかった。 どうしたと言うのだろう。何かあったのだろうか。会社には出ているので病気でないことは確かだ。しかしここまで出ないとなると故意に僕を避けているとしか思えない。

 次の日、最寄りの駅で待ち伏せし、彼女が来るのを待った。しばらくして現れた彼女は数メートル手前で僕に気付くと、慌てて反対方向に走り出した。逃げる彼女を追いかけ、後ろから腕を掴んだ。
「どうしたと言うんだ。何故逃げるんだ。何故電話に出ないんだ。長くほっておいたから腹を立てているのか? 同じ会社にいるんだから連絡出来なかった理由くらい分かってるだろ? それとも僕が何か気に障ることをしたのか? それならそうと理由を言ってくれ。言ってくれないと謝ることも出来ないじゃないか」
 彼女を前に、溜まっていたものが一気に噴き出た。
「すみません、あなたのせいではありません。弟が事故を起こして入院しているんです。毎日病院に行かなくてはならないので、あなたと会ってる時間がなかったのです」
 おどおどした様子で彼女は答えた。 興奮していた僕は、
「それならそうと言ってくれればいいじゃないか。何回電話したと思ってるんだ。僕は君の婚約者だよ、 弟さんはもうすぐ僕の家族になるんだから事故のことを隠す必要がないじゃないか。それとも僕が知ると何か都合が悪いことでもあるのか? いい加減にしてくれよ、いつまで僕を無視するつもりなんだ。ちゃんと 納得の行くように説明してくれよ」
 感情を抑えることが出来ず、罵声を浴びせてしまった。

「すみません、隠していたことは謝ります。でも本当に今は弟のことが心配であなたと会って話をする余裕がないんです。それに・・・」
 言葉を一旦切って目線を足元に落とした。少しの間があって、
「あの、それに、あの、あなたとはまだ正式な家族ではないのだから、何から何まで報告する義務はないと思います。あの、だから、そんなに責められる理由もないと思います」
 最後はちょっときつい口調で言われた。びっくりして動きが止まってしまった。まだ正式な家族ではない? 確かにそうかも知れない。でも、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
弟とは一度食事をしたことがある。明るくて感じのいい青年だった。事故で入院しているのならやはり心配だ。
「それなら、取りあえず見舞いに行かせて欲しい」
 と言うと、 
「損傷が酷くて話が出来る状態じゃないんです。やっと集中治療室から出たところで、完全に落ち着くまでしばらくそっとしておいてもらいたいんです」
 やはり、口調はきつかった。
「顔を見るだけでいいから、それだけでいいから」
 重ねて頼んだが首を横に振られた。
「そうか、分かった。状況も分からずに酷い言い方をしてしまって悪かった。じゃぁ、弟さんが退院してからでいいから、これからの事をもう一度きちんと話し合おう。結婚は急ぐ必要はないからね。だから、状態が落ち着いたら必ず連絡してくれないか」 
 言い過ぎたことを反省し、突っかかる気持ちを抑えた。しかし彼女は、
「回復にはまだ長い時間がかるので、今は何も考えたくありません。それと、もう今日のような待ち伏せはしないでください。しばらくは電話もしないでください。お願いします」 
逃げるように行ってしまった。その日以降、たまに廊下ですれ違っても一切こっちを見ようとせず、挨拶も会話もなく、何の進展もないまま時間だけが過ぎて行った。



 いつまで待っても彼女からは連絡が来なかった。弟を見舞いに行くにも病院の名前も所在地もわからない。仕事終わりに何回か彼女のアパートに行ってみたが、いつも電気が消えていて人のいる気配がなかった。このまま何事もなかったかのように終わってしまうのだろうか。不安な気持ちに耐えられなくなり、休みの日に留守を承知でアパートに行ってみた。
 いないだろうなと思いながら部屋の戸をノックすると、「はーい」という彼女の声が返ってきて一瞬固まってしまった。僕が大好きな柔らかくて通りのいい声。スリッパのパタパタという音がして、ふわっと戸が開いた。しかし、戸の前にいた来客が僕と分かったとたん、彼女は驚きの表情を見せた。誰か目当ての人が来る予定だったのだろうか、黙ったまま動かないので、
「入っていいかな」 
 遠慮がちに言うと、
「どうぞ」 
 観念したように部屋の中へ入れてくれた。小さなやかんでお湯を沸かしている間、彼女は僕に背を向けたまま。向かい合ったテーブルにコーヒーの入ったカップを置いてからも自分からは何も話してこなかった。
「あの、弟さんのことだけど、どんな様子かな」 
 気まずい雰囲気を和らげようと、出来るだけ穏やかに話しかけた。すると彼女は急に表情を強ばらせ、崩れ落ちるように椅子から降りて床に両手をついた。
「すみません、結婚の話はなかったことにして下さい。自分勝手なことは分かっています。本当に申し訳ないと思っています。でも結婚は出来ないんです。お願いします」
 驚きで次の言葉が見つからなかった。何か事情があることは承知していた。しかしそれが婚約破棄に繋がるとは思ってもみなかった。
「あのう、何かあったのなら言って欲しいんだけど」 
 感情的にならず、穏やかに話し合いたかった。しかし彼女は頭を垂れたまま、何をどう聞いてもそれ以上は答えなかった。
「取り付く島もないってことか」 
 理由を聞けないのなら引くしかない。この状態のままここにいたら大声を出してしまいそうで椅子に掛けてあったコートを掴んで立ち上がった。玄関の方に歩き、
「じゃあね」
 一言言って戸に手を掛けると、背中に叫ぶような声が返ってきた。
「他の人を好きになりました」 
 びっくりして振り返った。表情を崩した彼女の目から幾筋もの涙が流れ落ち、唇が小刻みに震えていた。この涙の意味は何なのか。 裏切りの涙? 謝罪の涙? 別れの涙?それともただの感傷の涙? いずれにしてもあまりにも分かりやすい理由。怖くて相手の男性のことを聞けなかった。
 
 一か月後、慌ただしく彼女は会社を辞めて行った 。
「柴内さん、丸栄商事の社長の息子と結婚するらしいよ」
 彼女が去った後、同僚から聞かされた。丸栄商事は繊維、機械、金属、住生活において幅広いビジネスを展開している大手総合商社だった。
「金の為に心を売ったのかな、よくある話だよな。まぁ飼い犬に手を咬まれたくらいに思って早く忘れちゃいなよ。彼女にも都合ってものがあるんだろうし。お前も彼女に負けないくらい幸せになって見返してやればいいじゃん」
 慰めのつもりの同僚の言葉が胸に刺さった。そうだ、よくある話なんだ。相手はエリート御曹司こっちは薄給のサラリーマン。 天秤に掛けるまでもない。彼女がどの道を選ぼうと僕が引き留める権利はないんだ。 悔しいけれどこれが現実、潔く諦めるのが最善の方法なのだろう。形のあるなしに関わらず、作り上げる作業には多くの努力と時間を要するが、壊れるのは一瞬なのだと身をもって思い知らされた。

 彼女と別れて以後、何人かの女性と付き合った。しかし結婚の話になると腰が引け、そこから先に進むことが出来なかった。

 時が流れ、僕は独身のまま還暦を迎えた。 有難いことにこれまで入院するような大きな病気はしたことがなく、高卒ながらそれなりの地位も得られ、坦々と過ぎていく日々の暮らしに不満を感じることもなかった。
 還暦後に定年退職したが、没するまでには余りある人生、体力には自信があるし働く気力も残っている。年金が支給されるまで人材センターにでも行って仕事を探してみようか。そんなことを考えながら近くの公園を散歩していた。
 池の淵に腰を下ろして白鳥を眺めていると、足元に1匹の白猫がすり寄って来た。 ピンクの首輪をしているので根っからの野良ではなさそうだ。 警戒心がなく、頭を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めた。公園に来る前に買ったロールパンを猫の前に置いてやると、パクっとくわえて何処かに行ってしまった。しばらくしたら戻って来たので、また1つ置いてやると、それもくわえて何処かに行ってしまった。 ロールパンは一袋6個入りで猫に2つ、家に帰ってから僕が2つ食べたのであと2つ残っていた。

 次の日、残りのパンを持って公園に行き、周辺をウロウロしていると昨日の白猫が現れた。
「おう、また会えたな」
 嬉しくなってパンを置いてやった。昨日と同じようにパンをくわえると何処かに行き、しばらくしたらまた戻ってきた。 残りのパンを置いてやったら、それもくわえて何処かに行ってしまった。そんなことの繰り返しで公園に行き始めて数週間が経った頃、白猫が1匹の子猫を連れてきた。生後3カ月くらいだろうか、頭を撫でてやるとゴロゴロ喉を鳴らして甘えてきた。 いつも2回パンを欲しがったのは子猫にも食べさせる為だったのか。白猫親子の姿があまりにも可愛くて公園が僕の癒しの場所になってしまった。


 ところが、しばらくすると子猫が付いて来なくなった。 ひとり立ちしたのならそれでいい、しかし事故にでも遭っていたなら不憫だ。
 子猫がいなくなってから白猫が僕のそばで長居するようになった。ある日の夕暮れ、いつまで経っても離れようとしないので、
「今日はもう帰るぞ、また明日な」
 頭を撫でて立ち上がると、白猫は前足を揃えて僕を見上げた。それから、
「にゃぁん」
 と甘えるような声を出し、僕を誘うように身体を返した。少し歩いて、戻ってきては顔を見上げる。 何回かそれを繰り返したので白猫について行ってみることにした。 フェンス沿いに進んで行くと土が窪んでいるところがあり、白猫はその中に身を屈めるようにして入って行った。 しゃがんで窪みの中を覗き込むが暗くてよく見えない。 しばらくすると小さなビニール袋をくわえて出てきた。 袋の中を見ると小さな紙切れと指輪が入っており紙に書かれた内容を見て驚いた。

  この指輪をはめると過去に遡ることが出来ます。
  戻りたい年月日を書いて穴の中に戻すと、
  本日午前零時に希望の年代にスリップします。  
  その際のあなたの顔や体型は希望年月日のものですが、
  実年齢は現代のままです。
  過去の滞在期間は本日の午前零時から48時間。
  48時間後の午前零時に自動的に現代に戻ります。
  時間ギリギリになって慌てないよう、心構えをしておいてください。

 何だこれは。ガキの悪戯か。漫画じゃあるまいしタイムスリップって何なんだ。全くふざけてる。こんなことを信じる奴がいるとでも思うのか。
 ぶつぶつ言っている僕に構わず、白猫は穴の中に消えて行ってしまった。希望の年代? 滞在時間は48時間? じゃぁ紙に書いてある通り、過去に行けたとして戻れなかったらどうなるんだ。その地点からもう一度同じ人生をやり直すってことなのか? いやいやそれはダメだろう。見かけは若くても体力が現代のままって、そんなのあり得ない。
 時計の針は午後5時を指していた。零時まであと7時間。何だよ、余りにも急過ぎて考えることも出来ないじゃないか。猫はモグラではないのだから穴の中に住んでいるとは考えられない。もしかしたら穴を抜けたところに誰かがいて、猫にビニール袋を運ばせ、悩んでいる僕を見て楽む、そんな幼稚な趣味を持ったやつの仕業かも知れない。それならばと、草の密集している所や大きな樹の周辺をしつこく見回してみたが、特に怪しいと思う人物は見当たらなかった。

 考えてみると、猫は人に従うとか仲間と協力して何かをするとか、そういう行動とは無縁の動物で、猫を自在に操るなんて普通では無理だ。ドッキリの類いかも知れないと思ってみたが素人にドッキリを仕掛ける物好きな放送局はない。
 となると、これは本当に本当かも知れない。現在、 世界のあちこちで謎めいた不可解な現象が起きている。自分の上にタイムスリップが起きても不思議ではないんじゃないか。
 あれこれ考えている間にどんどん時間が過ぎて行き、辺りが完全に暗くなってしまった。いつまでもここに居るわけに行かない。気持ち悪い感は拭えないが思い切って決めることにした。日付が変わって何も起こらなければそれでいい。今ある財産を奪われるわけでもないし、
「やっぱり、誰かにからかわれたんだ」
 そう思ってやり過ごせばいいだけだ。もし本当に過去に行けたとして、戻って来れない場合もそれでもいい。 自分を待つ家族がいるわけでもなく、過去からあの世に行っても、現代からあの世に行っても、実質60年生きたのだからそれでよしとしよう。
 であるならば、人生最大の節目となった失恋の年に戻りたい。 彼女に別れを告げられた時は自分が傷つくのが怖くて何も聞けなかった。 以来、ずっと自分を後悔し続けてきた。 何故あんな中途半端な状態で別れてしまったのか、納得のいく答えが知りたかった。
 といって、過去に戻れたとしても彼女の生活を壊すつもりはない。ましてや自分の気持ちを押し付ける気もない。 ただ、今も引きずっている彼女への拘りに終止符を打ちたかった。そのためにも事の真相を確かめたいと思った。
 とはいえ、僕が過去に戻ったことで周りの人たちの未来が変わることがあってはならない。 迷った末に、彼女が会社を去った3カ月後の日付を書いて穴の中に押し込んだ。 紙に書かれている内容が本当なら、今夜零時に過去にスリップする。

 就寝時、いつものように布団に入ったが、なかなか寝つかれなかった。 どんな形でスリップするのだろう。天井にぽっかりと穴が開いて、そこから吸い込まれるのだろうか。どこからか覆面男が侵入してきて気絶でもさせられるのだろうか。 掛け時計の秒針が動く度に怖さが増していった。
 そして、日付が変わる10秒前、急に針の音が大きくなり、「えっ?」と思った瞬間、深い眠りに落ちて行った。

 目が覚めた時はいつものベッドではなく、昔のせんべい布団の上にいた。飛び起きて周りを見回すと食卓もカーテンも当時のまま、飼っていた金魚もちゃんと動いていた。鏡の中には30代の自分が映っている。本当に時代を遡ったのか。気味が悪くてしばらく動けなかった。
 しかし、本当にそうならボーっとしている場合ではない。急いで朝食をとり、彼女が住んでいたアパートに向かった。 何回かノックしたが応答がなく、前を行ったり来たりしていると、隣の部屋から化粧気のないおばさんが顔を出した。 彼女のことを尋ねると、数週間前に部屋を引き払ったと言う。行き先を聞いてみた。
「さぁ、私もあんまり話をしてないのよね。管理人も最近変わっちゃったから詳しいことは知らないだろうしね。あ、そうだ、出ていく前に、一旦実家に帰って結婚式の前にまた戻ってくるって言ってたかな」
 おばさんは艶のないパサパサの髪をかき上げた。
「結婚式はいつって言ってました?」
 焦っておばさんの腕を掴んでしまった。驚いたおばさんが、
「知らないよ、そんなこと」
 腕を振り払うと、凄い勢いで戸を閉めてしまった。外から何度も謝ったが、おばさんがもう一度顔を出すことはなかった。

 丸栄商事にも行ってみた。 僕が勤めていた会社の何倍もの大きさの建物。 社長の息子ならこの会社で働いているはずだ。 相手の存在を確かめたくて、近くの花屋で身体が隠れる程の大きな花束を買って受付に行った。
「はなわ生花店と申しますが、社長のご子息様宛に花束のご注文を頂きました。どちらにお届けすればよろしいでしょうか」
 受付の女の子の顔がパッと輝いた。
「まぁ、なんて綺麗なお花。昭一様は2階の営業部にいらっしゃいますので、そちらの階段からお願いします」
 女の子が階段の位置を手で示してくれた。 息子の名前も言ってないのに花束を抱えているだけで居場所を教えてくれるなんて、こんな大きな会社でも当時の受付はいい加減だったんだな。 階段を上がりながら苦笑いしてしまった。
「はなわ生花店ですが、昭一さまに花を届けに参りました。お渡ししていただけますか」
 営業部の入り口にいる女性に花束とメッセージカードを差し出した。
「はい、お預かりします。ご苦労様でした」
 受け取った女性は花束を持って一人の男性のところに歩いた。女性の呼びかけに、振り向いた人物を見て一瞬声を上げそうになった。高校3年の時に同じクラスにいた丸田昭一だった。何ということだ。丸田昭一は丸栄商事の社長の息子だったのか。彼とはグループが違ったし、僕に対して「話しかけるなオーラ」を出していたので殆ど話をしたことがなかった。 金持ちの息子だとは聞いていたが、あの丸栄商事の社長の息子だったとは。 ということは、僕が結婚するはずだった柴内真菜の結婚相手とは丸田昭一なのか。 衝撃で身体が震えた。


 高3の時のある出来事を思い出した。 僕の家の筋向いに幼稚園から高校まで同じ学校だった幼馴染みの沖田祥子という女の子がいた。 何でも話せる唯一の女友達だったが、その子が高3の新学期を境に僕を無視するようになった。 訳を聞いても教えてくれない。
 ある日、映画館から出てくる丸田と祥子を見た。 腕を組んで丸田にしなだれかかる祥子は今までの祥子とは違って見えた。
 高校卒業後、丸田は有名私立大学に進学、僕は自動包装機製造の会社に就職した。 母が亡くなってすぐに引っ越したので祥子とはそれきりになっていたが、 その丸田が柴内真菜と結婚しようとしている。祥子とは深い付き合いではなかったということか。
 祥子の家にも行ってみた。 小さい頃から一緒に遊んでいたので祥子の母親は僕のことをよく覚えていた。 今は結婚して隣の県にいると言う。
「僕は遠くで働いており、2日後には戻ってしまうので彼女に一度会っておきたい」
 そう言うと彼女の住所を教えてくれた。 親切に地図を書いてくれたが、何とも分かりにくい地図で相当迷ってしまった。入りくんだ道を抜けてやっと見つけた家は5軒続きの長屋で、 ベルを鳴らすと女の子を抱いた祥子が出てきた。 母親から電話があったのか僕を見ても驚かなかった。挨拶を交わした後、すぐに高校時代の話になり、
「あの時はごめんね。丸田のことで嫌な思いをさせちゃったよね」
 お茶を出しながら祥子が頭を下げた。
「裕くんのお父さんと逃げた女の人なんだけどさ、丸田が小さい頃からお姉さんのように慕っていた叔母さんらしいのよね。お父さんはその叔母さんがやってる居酒屋のお客だったんだって。大好きな叔母さんを裕くんのお父さんにとられた事が許せなくて、ずっと根に持ってて、だから入学式で裕くんを見かけた時は殴ってやろうと思ったって言ってた。被害者は裕くんのお母さんも同じだってのにね。3年になって同じクラスになったでしょ? 裕くんは気が付かなかったみたいだけど丸田は授業中もずっと裕くんを睨んでたのよ。学力試験の発表の時も上位にいる裕くんの名前を見るたびに、貧乏人のくせに、なんて訳の分からないことを言ってたしね」
 お茶をすすりながら、おかしそうに笑った。
「へぇ~、全然気が付かなかったよ。僕はあいつに恨まれてたのか」
 丸田は僕のことを完全に無視していたので、ただ単に眼中にないだけなのだと思っていた。
「私ん家も裕くんと同じ貧乏だったでしょ、服とかバッグとか買ってやる代わりに裕くんとは喋るなって言われてさ。裕くんほんとごめんね、感じ悪かったでしょ?」
 祥子はもう一度頭を下げた。 そうか、そういうことだったのか、お金の力ってやっぱり凄いんだな。それにしても、なんて嫉妬深いやつなんだ。
 丸田とはどれくらい付き合っていたのかと聞くと、
「7、8カ月くらいかな。1学期に丸田から声をかけられて3学期にはもう別れてた。新しい子が見つかったからお前はもういらない、だってさ。要は裕くんから私を引き離したかっただけなのよ。そりゃぁ、裕くんとは幼馴染みだから仲が良かったけど、彼女でもなんでもなかったのにね。あたし、ずっと裕くんと仲直りしたかったけど、あんな勝手なことしちゃったから申し訳なくて言えなかったの」
 照れくさそうに、ぺろっと舌を出した。
「なんだ、言ってくれればよかったのに。僕はそんなことで怒ったりしないよ」
 明るく笑い飛ばすと、
「だよね、子供の頃から泥んこ遊びをしていた仲だもんね。でもあんなやつ、しつこく 追いかけなくて良かったよ。遅かれ早かれポイ捨てされるに決まってるもの。今の旦那ね、裕くんに似て男前で働き者なんだ。もうすぐ2人目が生まれるんだけど、子供たちの為に家を買うんだって頑張ってくれてるの」
 祥子は少し突き出たお腹を愛おしそうにさすった。
「そうか、幸せそうで良かったよ」
 祥子の膨らんだお腹が逞しく見えた。
「裕くんはまだ一人なの?」
「うん、祥子みたいな頼りがいのある娘がいいんだけどな」
 本当のことを言った。 祥子は姐御肌の女の子で僕がガキ大将に虐められていると何処からか現れて瞬時に追い払ってくれた。 幼い頃は祥子のことをスーパーマンの子供じゃないかと思っていた。
「そうだ裕くん、私をお嫁さんにしてやるって言ってたの覚えてる?」
「え、そんなこと言ったっけ?」
「幼稚園の時よ」
「幼稚園?」
「ところがさ、裕くんたら周りの女の子誰にでもそう言ってたのよ。全くとんだチビドンファンさまだよ」
 ケラケラ笑う祥子は昔の祥子だった。17世紀のスペインにおける伝説上の遊び人ドンファン。そんな名前を聞くのも久しぶりで、祥子との会話は楽しくて、あっという間に時間が過ぎて行った。長屋を後にしながら、現代に戻ったら60歳の祥子に会いに行ってみるのもいいなと思った。



 アパートに戻ったら新聞受けに走り書きのメモが挟んであった。

  安住裕介さま
  今日、丸栄であなたを見かけました。
  私の身勝手な行いを謝りたかったのですが
  会社の人と一緒だったので声を掛けることが出来ませんでした。
  本当に申し訳ありませんでした。
  心からお詫びいたします。
  どうか元気でお過ごしください。
                     柴内 真菜

 留守をしている間にここに来たのか。 僕も最後に会って話をしたかった。 丸田昭一が真菜を愛し、彼女もそれで幸せなら何も言うことはない。 愛する人の門出を祝福してあげたかった。
明日の午前零時に僕はもうここにいない。 何も持って帰れないし、このメモもなかったことになる。 何度も読み返し、頭の奥にしまい込んだ。

 次の日の朝、もう一度丸栄商事に行ってみた。入口が閉まっていたので裏に回ると窓口から警備員が顔を出した。今日は祝日で、中には誰もいないと言われた。
「あのう、僕、社長の息子さんの高校時代の同級生なんですが、ちょっと緊急で伝えたいことがありまして、何か連絡する方法はないでしょうか」
 ダメ元で聞いてみた。すると 、
「ああ、今日は息子さんの結婚式で、式場に行かれたら会えると思いますよ」
 思いがけない言葉が返ってきた。
「場所はどちらでしょうか」
 警備員は何の警戒心もなく式場の名前と場所を教えてくれた。タクシーを拾い、式場に着いた時はすでに挙式が始まっていた。
 ふと、映画「卒業」のラストシーンで花嫁を奪い去るダスティン・ホフマンの顔が浮かんだ。でも僕にそんなことが出来るはずがない。 僕は実際は60歳なのだし、映画でも最後は2人の不安を象徴するような後悔とも受け取れるシーンで終わっている。 勢いでやってはいけないことがあるのだ。それに何より、僕の軽はずみな行動で歴史を変えるようなことがあってはならない。 
 しばらくして扉が開き、世話人に交じって新婦が出てきた。急いで柱の影に寄ると新婦がちらっと僕の方を見て、びっくりして目を見開いた。持っていたブーケを落として固まっている。 僕は何の動揺もなく静かに笑い返した。 そりゃぁそうだ、僕は60歳の大人なのだから。 
 係の人に拾ってもらったブーケを持って彼女は去っていった。 挙式が終わってこれから披露宴に移るのだろう。彼女の花嫁姿は本当に美しかった。 これでもう思い残すことはない。今まで引きずっていた彼女への想いが、これでようやく吹っ切れたと思った。


 翌朝、目を覚ましたら現代に戻っていた。過去に戻ったなんて人に言ったら馬鹿にされるのだろうな 。UFOだって未だ完全な市民権を得ているわけではないし、SF映画の見すぎだと笑われるのがオチだろう。そんなことを思いながら挽きたてのコーヒーを味わっていた。
 朝のテレビはワイドショーのオンパレードだ。 見るともなく見ていたら、新潟出身のタレントが自分の村の特産物を紹介していた。 真菜の実家も新潟だった。一度日帰りで遊びに行ったことがある。コシヒカリの刈り取り時期で、黄金色の田んぼからバインダーの音が響き渡っていた。 テレビ画面いっぱいに映し出される美しい風景を見ているうちに、もう一度その場所に行って見たくなった。 一人暮らしのいいところは思うがままに行動出来ること。上越新幹線に乗って、お昼には新潟に着いていた。
 駅からバスに乗って1時間、下りた停留所からは草いきれのいい匂いがした。 さらに彼女の家まで歩いて20分。真っ直ぐの道で迷うことはない。といって彼女の家を訪ねるつもりはなく、今もまだそこに家が存在しているのか見てみたかっただけだ。
 家はすぐにわかった。 昔と同じ「柴内」の表札がかかっていた。 僕にとってここまでの距離はちょっと長い散歩道。それだけで充分だった。



 停留所に引き返そうと歩き始めた時、後ろから声を掛けられた。 
「あの、すみません、安住さんじゃないですか?」 
 振り返ると、農作業姿の男性が立っていた。
「えっ、あれ? もしかして、まさふみくん? 」
 真菜の弟だった。遠い昔に一度会っただけだが 、真菜によく似た顔立ちで雰囲気も似ているので、すぐに彼だと分かった。
「お久しぶりです。覚えてもらえてて嬉しいです」
 にこっと笑った顔が爽やかだった。
「すっかり容貌が変わっちゃったでしょう? 前にお会いしたときは邪魔になるくらいふさふさだったのに、今はすっかり禿げちゃって」 
 頭に手をやる彼の照れ方がおかしくて、 
「僕もどんどん薄くなってますよ」 
 同じように頭を押さえた。母親はすでに亡くなっていて、この家の住人は彼と彼の妻の2人だけだという。 子供3人は独立していて、正月になると孫を連れて帰ってくるらしい。 さぞ賑やかなことだろう。

 座敷で向き合った途端、彼は両手をついて深々と頭を下げた。
「安住さん、申し訳ありません。僕と姉さんのこと、許してください」 
 いきなりのことでどう答えていいのか分からず、
「あ、いえ、そんな、過ぎたことですから」 
 恐縮して小刻みに手を振った。 
「あなたと姉の未来を壊してしまったのは僕なんです。どんなにお詫びしてもお詫びし切れません。取り返しのつかないことをしてしまい、心から責任を感じています」 
 頭を上げた弟が静かに話し出した。 

 弟の名前は柴内政史。地元の高校を卒業してから上京し、真菜の住むアパートに転がり込んできた。 真菜の友達の紹介で運送会社の下請けをさせてもらうことになったが、 完全歩合制だったので働けば働くほど収入になった。 持ちなれないお金を持った弟は毎夜のように遊び歩き、当然、姉は怒った。 姉の小言がうっとおしくて、パチンコ屋で知り合った女のアパートに入り浸るようになったが、その女にはヒモが付いていて、びっくりするような慰謝料を要求された。 二度とおかしな女には手を出さないという約束で慰謝料は姉が立て替えた。
 元々は弟も真面目な性格で、以後は毎月の収入の中から一定額を姉への返済に回し、無駄使いもしなくなった。 しかし、結婚の準備をしている姉に早く全額を返したいという思いから、割のいい長距離ピストンを繰り返し、誤ってガードレールに激突してしまった。 人身事故でなかったのが幸いだが、内臓破裂、両足首複雑骨折の重傷を負い、治療費に加えて運送会社への賠償金が政史の肩に重くのしかかった。
 政史が下請けをしている運送会社というのが丸栄商事の子会社で、政史と丸田昭一は少しの面識があった。事故のことを聞いた丸田が病院を訪れ、弟に付き添っている真菜を見たとたん、
「あなたに一目惚れしました。僕と付き合ってください」
 戸惑っている真菜に構わず、翌日から丸田の病院通いとプレゼント攻撃が始まった。
「貰う理由がありませんので」
 何度断っても聞く耳を持たず、反対に2カ月後に結婚を申し込んできた。
「すみません、婚約者がいますのでお受けすることが出来ません」 
 余りの強引さに、真菜はきっぱりと断った。だが後日、真菜の婚約者が、高校の時の同級生、安住裕介だと知った丸田に再び嫉妬と闘争心が燃え上がった。丸栄商事の社長である父に、自分の愛する女性が安住という男に奪われようとしていて、しかもその安住という男は「お父さんの妹を連れ去った男の息子である」と更なる憎悪を駆り立て、父の怒りを煽った。そして愛する女性と結婚するために、彼女の弟に課せられた賠償金を丸栄商事で引き受けて欲しいと懇願した。
 丸田昭一から差し出された「賠償金を肩代わりする」という結婚の条件に真菜の心は揺れ、弟を楽にしてやりたいと思う気持ちが日に日に大きくなって行った。迷いと苦しみの中、何度も祐介に相談しようと思った。しかしその時期、祐介は会社で大変な問題を抱えていたことと、賠償金の額の大きさを考えると30代のサラリーマンが簡単に解決できる問題ではないと自分の中でブレーキをかけてしまった。
 しかも、丸田への返事を曖昧にしているうちに、真菜の知らないところで丸田が既成事実を作り上げ、式の段取りが形になって現れ始めると、もはや断れない状況になってしまった。政史自身は一生をかけて弁済していくつもりだったので、丸栄商事が賠償金を肩代わりしたことを全く知らなかった。
「裕介さんとは別れたから」
 姉から事後報告があった時は、後戻りできないところまで来ていた。


 弟の話にしばらく声が出なかった。「なぜ」の二文字が頭の中を駆け巡った。莫大な借金から弟を逃がしたかった真菜の気持ちが分からないではない。安月給の僕の経済力では弟を救うことは困難だと判断したのも分かる。でも僕にぶつける勇気を持って欲しかった。すぐには答えが出せなくても、知恵を絞れば何か方法が見つけられたはずだ。苦悩している彼女から幾度となく信号が出ていたはずなのに、仕事に掛かりきりで気付けなかった自分が無念でならない。
「真菜さん、元気で暮らしておられますか」
 一番確かめておきたいことを聞いた。
「姉は8年前に亡くなりました」
 衝撃の言葉に目の前が真っ暗になった。
「結婚して2年目に男の子が生まれたのですが、その子が7歳の時に風船を追って道路に飛び出し、車に撥ねられて死んでしまいました。昭一さんは息子を溺愛していたので、繋いでいた手を放した姉を責め、姑も一緒になって姉を責めました。元々姑の反対を押し切っての結婚だったので、愛人に子供が出来たのを機に家を追い出され、身体を壊して入退院を繰り返すようになってからは生きる気力をなくしていました。
 僕は実家に戻って高校の同級生だった女性と結婚したのですが、いつ死んでもおかしくない状態の姉を見兼ねてこの家に呼び寄せました。空気のいいところで静養してもらいたいと思ったのです。姉に迷惑をかけたことを思えば面倒をみるのは当たり前のことで、妻も快く了承してくれました。その甲斐あって姉は少しずつ元気を取り戻し、畑仕事を手伝ってくれるまでに回復しました。妻も子供たちも姉を邪険にしたことは一度もなく、家族同様に接していましたが、それでも姉は死ぬ時まで僕たち家族に遠慮していたように思います」 
 話しながら弟は泣いていた。 もっと早く、もう一度真菜と出会いたかった。 そしたら今度こそを抱きしめて離さなかったのに。
 外から帰ってきた奥さんが挨拶に顔を見せた。やさしそうな女性。 政史くん、君はいい結婚をしたんだな。良かったよ、君の穏やかな暮らしが姉さんへの何よりの供養だと思うよ。



 帰り際に桜色の封筒を差し出された。
「姉が息を引き取る前に、いつかもし、あなたが尋ねてくるようなことがあって、そしてその地点で奥様がいらっしゃらなかったら、これを渡して欲しいと託されました」
 封筒の表に僕の名前。 帰りのバスの中で開いた。

  裕介さん
  この手紙をあなたに見てもらえるのはいつでしょうか。
  10年後? 20年後?
  それとも永遠に封筒に収まったままかしらね。

  あなたの姿を見たのは私が会社に入った当日です。
  その瞬間 
  私はこの人と出会うために生まれてきたのだと思いました。
  あなたのことを思うとご飯も喉に通らなくて
  勇気を振り絞って声を掛けました。
  初めて一緒にご飯を食べた夜は嬉しくて眠れませんでした。
  プロポーズしてもらった時はもっと眠れませんでした。
  それなのに、そんなあなたを私は裏切ってしまいました。
  人としていけないことをしてしまいました。
  裕介さん 本当にごめんなさい。

  今度こそ永遠にお別れです。
  来世であなたに会えたら、その時はもう一度謝らせてください。
  あなたのしあわせを心から願っています。
                        真 菜

 後から後から涙がこぼれ落ちた。いったい君はどれだけ昔人間なんだ。お金の為に身を投げ出すなんて、今なら時代遅れだと言われるよ。君にとって僕は頼りない人間だったのかも知れないけど、無理にでも手を掴みに来て欲しかった。
 悲しくて、悔しくて、涙が止まらない。もうこの土地に来ることはないだろうけど、君が生まれ育ったこの景色をよく覚えておくよ。 君が残したメモはあの時代に置いてきたけど、この手紙は死ぬまで持っているからね。



 家に帰って気が付いた。 ずっと指輪をしたままだった。 サイズが小さくて小指に無理やり押し込もうとしたが、はまりきらずに第二関節で止まっていた。 この指輪も時空を超えて戻って来たんだな。過去に戻れたお蔭で長く胸に痞えていたものが滑り下りた。お礼の言葉を添えて元の場所に返しに行こう。
 次の日、特上の食パンを買って公園に向かった。いつもの場所で白猫を待ったが、いつまで経っても現れないので帰りかけたら後ろから鳴き声がした。
「なんだよ、もう会えないのかと思っちゃったよ」
 しゃがんで白猫の背中を撫でてやった。 3日会わなかっただけで1か月以上も会っていない気がする。
「お前のお蔭ですっきりしたよ、ありがとうな。パンを食べるか? 今日のは上等の食パンなんだぞ」
 石段に腰をかけて袋を開けた。パンを引き出そうとすると白猫が膝に飛び乗り、前足を僕の首に回してきた。
「なんだなんだ、恋人のようだな。じゃぁ一緒に食べるか」
 白猫を膝に置いたまま、パンをちぎって口元に持っていってやった。1枚をペロッと食べて満足したのか、膝から下りると例の穴の方向に歩き出した。 指輪を戻す為に僕も後からついて歩いた。 窪み近くになって指輪をはずし、何気なく内側に彫られた文字を見てびっくりした。

 yusuke to mana

 気が付かなかった。 あの日、真菜に結婚を申し込んだ日に渡した指輪だった。新生活に向けて入りようのお金があり、ダイヤモンド付きではなかったけど精いっぱいのプラチナの指輪。 何故あの時の指輪がここにあるのか。

 あの白猫はいったい?
 まさか。
 そんなことが。

 「真菜!」
 窪みに頭を突っ込みかけている白猫に叫んだ。
 白猫は片方の前足を上げたまま動きを止めた。
 「真菜」
 今度はもう一度、静かに呼びかけた。
 白猫はゆっくり振り返り、僕を見つめた。

 僕は白猫と暮らし始めた。
 白猫は真菜の生まれ変わりなのか。
 それとも物質化現象のようなものなのか。
 それとも・・・
 いや、そんなことはどうでもいい。
 一緒に空を見上げ、一緒にご飯を食べ、一緒の朝を迎える。
 こんな満ち足りた日々が訪れるとは夢にも思わなかった。
 仕事をリタイヤし、貯金と退職金で暮らす日々。
 でも不満なんてない。
 僕は今、限りなく幸せな時を過ごしているのだから。

                               ー完ー

 

 
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