父の再婚
母の一周忌も済まない内に父が再婚した。相手の女性は父が経営する会社の契約社員で、名前を川田由紀子。 葬式の日に、母の入院中から不倫関係にあったと会社の人たちが話しているのを聞いた。当時10歳だった私は不倫の意味が分からず、後日それとなく友達のお姉さんに聞いてみた。
「不倫というのはね、奥さんのいる旦那さんが奥さん以外の女の人と夫婦のように仲良くなることよ。男と女が逆の場合もあるけどね」
お姉さんは笑いながら答えてくれた。川田由紀子には私より1つ年下の美緒という連れ子がいた。母親に似た端整な顔つきで、頭も良く学校から帰るといつも満点のテスト用紙を母親に見せていた。
「頑張ってるわね、お母さんも鼻が高いわ」
母親が頭をなで、仕事から帰った父も同じように美緒を褒めた。算数の苦手な私が満点を取ったことがある。やっと褒めてもらえると思った。
「なんだ珍しいな、お前が満点を取るなんて」
父が笑い、
「いつもこうならね」
母親が皮肉を被せた。悔しくてテスト用紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。母親と美緒は驚くほど仲がいい。週末になると二人でどこかに出かけ、抱え切れないほどの買い物をしてくる。買ってきた物をテーブルに並べて楽しそうに笑い合い、そこに父が加わると笑い声が更に大きくなった。日を追うごとに疎外感が募り、特に用事がない限り自分の部屋から出なくなってしまった。
父の号令で月に一度家族で食事に出かける。行きたくないとは言えない。母親は父の前では私にやさしい母を演じ、不自然なほどの笑顔を向けてくる。美緒も同じだ。普段呼ばないお姉さんという言葉で話しかけ、そのあざとさが嫌で食事中は殆ど喋らなかった。
だが父はそんな不自然さには全く気付かないで、家族を食事に連れて行くことで父としての役目を果たしていると思っていた。たった一年で家の中から母の匂いが消え、私の存在も父の中で薄いものになっていった。
とはいえ、無視されることの利点はあった。褒めてもらえない代わりに叱られることはない。構ってもらえない代わりに干渉されることもなかった。 無関心という名の自由は、違う角度から見れば何ごとにもお咎めなしの素晴らしいパス権でもあった。

ある日の学校の帰り、冴えない風貌のおばさんに声を掛けられた。
「いいものをあげる」
おばさんはバッグから5、6cm角の小さなビニール袋を取り出した。袋の中には焦げ茶色の丸い粒が1つ入っていた。
「おばさん誰ですか?」
警戒するほどではなさそうだが、何となく気持ちが悪い。
「私はね、妖精なの」
おばさんは腰を屈め、私の耳元に囁いてきた。
「えっ、妖精?」
何を言ってるんだこの人は。これは頭のおかしい人かも知れない。そう思って無視して歩き始めた。
「信じないの?」
おばさんは並んで歩きながら顔を覗き込んで来た。
「あっちへ行ってよ、お巡りさんを呼ぶわよ」
ちょっと大きな声を出した。
「いいよ呼んでも。でも残念ながら私の姿はあなた以外の人には見えないのよ」
おばさんはにっこり笑った。やっぱり頭がおかしい。こんなのにかかわり合ったら後々面倒なことになりそうだ。
「わかったからあっちに行って」
右手でおばさんのお腹の辺りを押した。瞬間、棒立ちになってしまった。自分の手がおばさんの体を突き抜けたのだ。びっくりしておばさんを見ると、
「だから言ったでしょ、妖精だって」
おばさんは得意気にあごをしゃくった。
「で、でも、妖精って子供なんじゃないの?」
カバのような顔をしたこのおばさんが妖精とはとても思えない。
「それは天使よ。妖精は大人も子供も関係ないのよ」
「え、あ、そうなの? でも大人だとしても、もっと綺麗じゃないと」
見たままを言った。おばさんの顔は凄く大きくて、その割に目は小さくて、服装は足首まである黒いスカートにコートのような長いカーディガン。へんてこな帽子に先の尖ったペチャ靴。むしろ魔女に近い気がした。 少なくとも私のイメージする妖精とは違う。いぶかしげにおばさんを見る私に、それでもおばさんは笑顔を崩さなかった。
「あなた誤解しているわ。黒人の全てが素晴らしい歌声の持ち主だと思っているでしょう? 黒人にだって音痴の人はいるのよ。聞きかじりで判断しては駄目」
おばさんは私の手を取って大きな木の陰に引っ張って行き、さっき見せたビニール袋を私の目の前で揺らした。
「だからね、これあげる。これはね、人を殺せる薬なのよ」
急におばさんの声が小さくなり、目の奥が光った。びっくりしておばさんを見つめた。
「あなたはね選ばれた人なの。あなたは自由に人を殺すことが出来るの。この粒を殺したい人の飲み物に混ぜると数時間後に死んじゃうのよ。しかも何故死んだのか原因は分からない。どう?素晴らしい薬でしょ?」
そんな薬が本当にあるなんて信じられない。おばさんは私をからかって面白がっているのではないか。それならばと、探偵アニメで聞き覚えた言葉を使ってみた。
「それって完全犯罪ってこと?」
「まぁ、よく知ってるわね、その通りよ」
おばさんは顔をほころばせた。
「何故、私にくれるの?」
そうだ、何故私にくれるのか。
「だから言ったでしょ? あなたは選ばれた人だって」
「何故選ばれたの?」
「あなたが理不尽な、あ、理不尽っていうのは納得出来ないって意味なんだけど、あのお母さんが来てからずっと嫌な目にあってるでしょ? 消えてなくなればいいと思ってない? あなたはこれから、もっともっと理不尽な扱いを受けることが私たち妖精には見えているの。だから妖精会議であなたにこの薬をあげることに決めたの。選ばれるのは1年で1人だけなのよ。こんな素晴らしい権利を逃す手はないでしょう?」
耳元で囁くおばさんの声が、発達途中の私の脳みそをかき混ぜた。何となく分かる気はするがだからと言って ”じゃぁ貰います” とは受け取れない。第一、 妖精会議ってなんなのだ、見たことも聞いたこともない。疑いの目でおばさんを見る私に、
「別に今すぐ使わなくていいのよ。この薬は1年の有効期限があるから、それまでに使えばいいのよ」
おばさんは袋を私の手の中に押し込んできた。
「あ、いや、でも。でも今は医学が発達してるから髪の毛とか唾液とかで、何故死んだか分かっちゃうんじゃないの?」
おばさんは目を丸くした。
「まぁ、ほんとよく知ってるわね。でも心配しなくて大丈夫。この薬は心臓発作で片づけられるから犯人探しはされないの。普段の生活で心臓発作なんてよくあることなのよ」
おばさんはどこまでも自信たっぷりだった。でもやっぱり、おばさんの言うことは分かりそうで分からない。尚も首を傾げていると、
「使わない場合は1年で効き目がなくなるから、そのままゴミ箱に捨てればいいだけよ。後は知らん顔してれば大丈夫。ただ、これを持っていることは誰にも言っては駄目。言うと効き目がなくなっちゃうからね」
おばさんは袋を持った私の手をぎゅっと握った。どうしよう、使わなくても1年で効き目がなくなるなら貰っておいてもいい気がする。折角のチャンスだし、お守りの意味で持っていれば安心だ。でも人を殺す薬なんか持っていると気になって落ち着かないんじゃないだろうか。本当に大丈夫なんだろうか。
いつまでも迷っている私に、とうとうおばさんがしびれを切らした。
「いらないならいいよ。他の人にあげるから」
私の手から袋を取り上げ、バッグの中にほり込んだ。
「あ、あの、1日待ってもらうというのはダメですか?」
焦っておばさんの上着を掴むと、
「そんな都合のいい話はありません」
おばさんの小さな目が吊りあがった。
「あ、すみません、貰います、お願いします」
上着をつかんだまま上体を90度に折り曲げた。するとおばさんは元のやさしい顔になり、改めて私の手の中に袋を握らせた。それからもう一度にっこり笑うと、長いスカートを翻して何処かに消えて行った。

美緒の死
薬を引き出しに入れたまま1年が過ぎた。1年の間に何回か使おうと思った。でもいざとなると怖くて使えなかった。父は相変わらず私には無関心で、母娘とも乾燥状態が続いていた。登校拒否とか家庭内暴力とか、そういうのでも起こせば父も私を意識してくれたかも知れない。でもそんな姑息なことはしたくなかった。無理に輪の中に加わろうとせず、時期が来ればこの家を出て行けばいい、そう思っていた。
思っていたのに、小学校の卒業が近づいたある日、頭に血が上って薬を使ってしまった。焦りと緊張で薬を入れる手が震えても止めることが出来なかった。
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幼稚園からの友達で垣内晃君という男の子がいた。家が近くでよく一緒に遊んでいたが、小学校の高学年になってからは廊下ですれ違った時に挨拶するくらいで、二人だけでは遊ばなくなっていた。その晃君が卒業と同時に他県に引っ越すことになり、このまま離れてしまうのが寂しくて晃君にメモを書いた。
晃君
もうすぐ卒業だね。
思い出に一度どこかに遊びに行きませんか。
野村 可奈
晃君の下駄箱に入れようと思っていた。でもいざとなると勇気が出なくて、鞄の中に何日も入れたままになっていた。ところがそのメモが廊下の掲示板に貼り出され、学校中の噂になってしまった。あまりの恥ずかしさで死んでしまいたいと思った。
「ラブレター凄い反響だね。有名になれてよかったじゃん」
母親と三人の夕食時、美緒がからかってきた。
「どうしたの?」
母親が箸を止めて美緒と私を交互に見た。
「可奈ちゃんさ、長い間ラブレターを鞄に入れたままでさっさと渡さないのよ。だから私が気持ちを伝えてあげたの」
美緒の言葉に唖然となった。掲示板に貼り出したのは美緒だったのか。勝手に人の鞄を開けて学校中のさらし者にするなんて許せない。怒りで身体が震えた。
その日の夜、風呂から上がった美緒がアイスコーヒーをガラスコップに注いでいた。居間から彼女を呼ぶ母親の声が聞こえ、半分注いだコーヒーを置いて美緒が台所を離れた。
「今だ」
階段を駆け上り、ビニール袋を掴んで台所に引き返した。尋常ではない汗が吹き出し、心臓は破裂しそうなくらい波打った。コップに沈んだ粒は微かに発泡し、スプーンでかき混ぜると少し濁った感じはしたが色の変化はなかった。
数分後に戻ってきた美緒がコーヒーを注ぎ足して二階に上がって行き、ドアの閉まる音が聞こえた途端、足に震えが来た。おばさんが言った薬の有効期限は過ぎていた。でも、効き目があるとかないとかそんなことに関係なく、やってしまったことの怖さで一晩中眠れなかった。
しかし翌朝、美緒は普通に起きてきた。どこも変わった感じはない。期限切れで効かなかったのか、それとも人を殺せる薬なんて始めから嘘だったのか。理由はどうであれ内心ほっとしていた。腹が立った勢いでとんでもないことをしたと思っていた。美緒が死んでいたら後悔では済まない。何事もなくてよかった。心からそう思った。

その日、学校に行くと下駄箱に手紙が入っていた。
可奈ちゃん、あのメモは僕が持っています。
僕も可奈ちゃんと最後に会って話がしたいです。
今度の日曜日に一緒に植物園に行きませんか。
OKなら朝の九時に駅前に来てください。
1時間待って来なけれ諦めて帰ります。
垣内 晃
嬉しかった。晃君は怒っていなかった。手紙を鞄の内ポケットに入れて、無くさないようにファスナーをきちんとしめた。 その日の夜、父はいつものように仕事で家にはいなかった。必要なこと以外話しかけてこない美緒が、
「何かいいことでもあったの?」
久しぶりに居間でテレビを見ている私に聞いてきた。
「別に」
「晃君と仲直りしたとか?」
美緒の目は陰険だった。私を見る母親の探るような目も嫌だった。番組の途中だったが、余計なことを聞かれたくなくて二階の自分の部屋に戻った。
宿題を終えて晃君の手紙を見直していたら、階段を上がってくる美緒の足音が聞こえた。機嫌がいいのかお気に入りの歌を口ずさんでいる。美緒とは趣味も考え方も全く違うのに好きな歌だけはよく似ていた。
歌声が近くなり、もうすぐ上がり切るかなと思った瞬間「ああっ!」という悲鳴が聞こえた。同時にガラスコップのぶつかる音がしたので、驚いてドアを開けると階段の下に美緒が転げ落ちていた。 周辺に飲み物とガラスの破片が散らばっている。悲鳴を聞いて走って来た母親が美緒の首に刺さっているガラス片に気がついた。瞬間、アニメで見た同じようなシーンを思い出し、破片を抜こうとしている母親に、
「抜いちゃダメ!」
大声で叫んだ。だが間に合わなかった。噴き出した血で母親の顔が赤く染まり、駆け付けた救急車が病院に到着した時には美緒の息はなかった。

新しい環境
慌ただしく葬式が終わり、静かな家の中でふと思った。もしかして美緒が階段を踏み外したのはあの薬のせいじゃないだろうか。おばさんが言った薬の有効期限は過ぎていた。期限が過ぎていた分、効き方が遅かったのではないだろうか。もしくは、あの夜に飲まなかったコーヒーを次の日に飲んだのかも知れない。そう思った瞬間、全身が凍り付いてしまった。どうしよう。誰かに言わなくては。でも誰にどう言えばいいのか。
” 妖精に貰った薬を妹の飲み物に入れたら、心臓麻痺を起こして階段から落ちた”
そんな話をまともに聞いてくれる人がいるだろうか。恐ろしさで食べ物が喉を通らなくなり、学校にも行けなくなった。部屋に閉じこもったまま日に日に痩せて行く私を心配した父が、知り合いの病院に入院させた。 入院時も入院中も、母親は一度も私に付き添うことはなく、父の留守中に離婚用紙を置いて家を出て行ってしまった。
父は毎日病院に来てくれたが、普段から会話のなかった親子に共通の話題はなく、点滴だけで生きている娘を見ては溜息をついていた。それがたまらなく嫌で、
「溜息を付くくらいなら来なくていい」
大声で叫びたかった。でも口には出せなかった。私だけでなく、父も同じように憔悴していたからだ。天井を見て過ごす一日は恐ろしく長い。ゆっくり落ちていく点滴と窓の外に流れる雲を見ながら、それでも確実に時間は過ぎて行った。
半分にまで減った体重が2か月かかって元に戻った。時間ごとにお腹が空き、考える力も出てきた。しかし、身体は回復しても目を瞑るとあの日の光景が現れる。一日たりとも神経が休まることはなかった。あまりの辛さに何度も主治医に相談しようと思ったが、精神病と診断されるのが怖くて結局最後まで言えなかった。
退院近くになって晃君がひょっこり訪ねて来てくれた。晃君はすでに他県に引っ越していて、新しい町の中学生になっていた。そうだ、私ももう中学生なのだ。小学校の卒業式にも中学校の入学式にも出られなかった。
「あの時は駅に行けなくてごめんね。待ちぼうけだったでしょ?」
晃君にはあの日以来、何の連絡もしていなかった。
「そうだよ、あの時は完全に振られたと思ったよ」
晃君は笑った。 私も笑った。
「後で事故のことを聞いてさ、可奈ちゃんの方こそ大変だったろうなって心配しちゃったよ。またこっちに来ることがあったら連絡するから、その時はちゃんと会おうね」
面会時間ギリギリまでいてくれて、晃君はやさしい笑顔を残して帰って行った。

夏子さんとの出会い
退院前に父が住まいを変えていた。
”家に戻ると娘の病気がぶり返すかも知れない”
そんな風に気を回したのだろうか、今まで住んでいた家には戻らず、病院から直接その家に向かった。新しい環境からの出発、私の周りに私を知るものはいない。それがいいことか悪いことか分からない。でも、そんなことはどうでも良かった。病室の狭い空間から抜け出せた解放感が私に生きているという実感を与えてくれた。
新居に移ってすぐ、通いのお手伝いさんが来てくれるようになった。洗濯も掃除も食事の用意も、全てお手伝いさんがしてくれるので、日常の生活で困ることはなかった。お手伝いさんが来ない日曜日には一日中父が家に居た。父が居たところで話すこともなく、一緒に出かけるわけでもなかったが、動くものが目に映るというだけで妙な安心感が得られた。
一人でいる時にも、寂しくないようにペットを飼ってもいいよと言われたが、動物は自分より先に死ぬから、そのことで辛い思いをしたくないと答えた。
じゃぁ金魚ならどうかと言われたが、金魚とは意思の疎通が出来ないし、並んでご飯も食べられない。父が私のことを気にかけてくれるようになっただけで十分だと思った。

中学1年の時から5年間、身の回りの世話をしてくれたお手伝いさんが田舎に帰って行った。
皮肉っぽいことや、気に障るようなことは一切言わないやさしい人だったが、そこは他人、どこか気を遣っていたところがあった。自分で家の事をするようになって、自分のペースで時間を割り、自分のペースで事を運ぶ楽しさを覚えた。
高校卒業後は短大に通い、短大を出てからは自転車で通える近くの市役所に就職した。働き出して1年が過ぎた頃、父が言いにくそうに話しかけてきた。紹介したい女性がいると言う。結婚を考えているとも言った。そういえば何度か言いかけては止めていたことがあった。さすがに結婚3回目ともなると気軽には言い出せなかったのかも知れない。でも私はもう子供ではない。成人している大人だ。父の恋愛を頭から否定するようなことはしない。
「お父さんの好きなようにすればいいよ」
そう思ったので気負わずに答えた。後日その女性が家に来た。
「宮辺夏子と言います」
女性は丁寧に頭を下げた。派手でもなく地味でもなく、落ち着いた感じの人だった。父より5歳年上ということに少しびっくりしたが、
「籍は入れないことにした。彼女の希望だ」
父の言葉に、もっとびっくりした。
「結婚するんじゃないの?」
驚いて父を見た。女性は下を向いていた。
「正確には同居ということになる」
「どうしてですか?」
彼女に聞いた。少し微笑んで、その人は静かに話し始めた。
「私は小さい頃に両親を亡くし、高校を卒業するまで養護施設にいました。施設を出てからは一人で生きてきました。今は小さな居酒屋で生計を立てていますが、この歳になって頼る人もいなくて生涯一人を覚悟していました。お父さんが店に来られたのは2年程前です。最初はただのお客さんでしたが互いのことを話すうちに心を惹かれ、そのうちお父さんが来られるのを待つようになりました。
2年が過ぎた頃、お父さんから結婚を申し込まれ、嬉しくて涙が出ました。でも私に籍は必要ではありません。今の私には十分な蓄えがあります。お父さんが私より先に逝かれた場合、籍を入れたことであなたが相続すべき財産を奪うようなことをしたくありません。ただお父さんと一緒に生活がしたいのです。朝起きた時におはよう、夜寝る前におやすみ、そんな当たり前の言葉を交わせる環境が欲しいのです。
あなたと一緒に暮らすようになっても、私のことを嫌だと思ったらその地点で仰って下さい。すぐに出て行きます。その意味でも籍は入れない方がいいと思っています」
彼女はバッグから2冊の通帳を取り出し、私の前に置いた。
「中を確かめてください。女ひとり、店とこれだけあれば生きて行けますから」
柔らかい物腰の中に毅然としたものを感じた。この人の歩いてきた道を想像してみた。男性関係が全くなかったわけではないと思う。結婚を決意するに至らなかったのは、それなりの理由があったからだろう。たとえば相手の親の反対、たとえば不倫、たとえば結婚詐欺。しかし、私に父とこの人が決めた事に反対する理由がなかった。
「わかりました。あなたの都合でいつからでもいらしてください。ただ環境の違うものが一緒に住むとなると、そのうち何らかのズレが生じてくると思います。その場合、決してお互いを干渉しないということにしたいのですが」
彼女の顔が崩れ、ほっとした表情になった。
「はい、よろしくお願いします」
頭の下げ方が美しいと思った。通帳の中身は見なかった。百万でも一千万でも一億でも、いくらであっても構わない、私のお金ではないのだから私がそれを見る権利はない。
数日後、キャリーバッグを押して彼女はやってきた。材料の仕入みなどの為に週のうち半分は今まで通り自分の店の二階に泊るという。それならば父が彼女の家に住みつけばいいのではないかと思ったが、父は私が結婚して家を出るまでは一人にさせたくないと言った。
私に隠し事をしなくて済むようになった父は毎日が楽しそうであった。父の笑顔を見ると私も嬉しくなる。一緒に住むようになって分かったが、夏子さんは思っていたより気さくで明るい人だった。二人で買い物に出かけた時のこと。今まで結婚しなかった理由を聞いてみた。夏子さんはサバサバしていた。
「そうね色々あったけど、私、後ろを振り向かないことにしているの。過ぎたことを後悔しても何の足しにもならないでしょ。そんなことに気をとられていたら、いいことに出会えても見逃しちゃうもの。だから私はいつだって前だけを見ているの。そのお蔭で通夫さんと出会えたし」
夏子さんは愉快そうに笑った。父のことを通夫さんと呼んだ人は死んだ母だけだった。少しこそばゆくて、なんだか父が若くなったような気がした。
「私の人生は始まったばかり。百歳まで生きてやろうと思ってるのよ」
夏子さんの元気印は気持ち良くて、落ち込んだ時の励まし本を見ているようだった。
それから暫くして、小学校の時の友達から晃君が結婚したことを知らされた。相手の女性は5歳年上で出来ちゃった婚だそうだ。何やってんだか。それでもその年の暮れ、
” 晃君、結婚おめでとう。子供が生まれるんだって? やさしくて逞しい子に育ててね"
年賀状で祝福の言葉を贈った。父に晃君のことを話すと、
「5歳年上か、俺と同じだな。そうかそうか、年上はいいよ」
いい歳の大人が娘の前でデレデレ顔になった。少しずつ、自分の周りが幸せになって行ってることが嬉しかった。

妖精おばさんとの再会
季節が二回りし、広報課から戸籍課に異動になった。戸籍に係るあらゆる証明発行の業務を行い、合間に戸籍の附票整理をする。家賃滞納で居られなくなったのか、ストーカーから逃げているのか、ただ単に引っ越しが好きなのか、短期間で何度も住所が変わっている人が多いのに驚かされた。
ある日のこと、終業のアナウンスが流れ出すと一人の女性が慌てて窓口に走ってきた。印鑑証明の請求用紙を差し出す女性の顔を見て一瞬息が止まった。何度も何度も夢に出てきた顔、忘れたくても忘れることのできなかった顔。私に妖精と名乗ったおばさんだった。請求者名に朝霧三織と書かれてある。
”顔に似合わない綺麗な名前だな”
反射的に、おばさんを二度見してしまった。おばさんに声をかけられた日から12年が経っていた。当然ながらおばさんは私の顔を覚えていない。でも私ははっきりと覚えている。大人の顔は12年では変わらない。今の地点で私は23歳の大人だった。妖精などこの世に存在せず、彼女が妖精でないことは承知しているのに、彼女の前で私は11歳の少女に戻っていた。
12年前に彼女の体を押した時に手が突き抜けた、あの感触が忘れられない。そして何より、美緒が死んでしまったという事実がある。私の中で過去と現在がごちゃ混ぜになり、発行証明を片手に出口に向かうおばさんの後姿をボーッとした頭で見送っていた。
おばさんの姿が完全に見えなくなって我に返った。あの日、おばさんは何の目的で私に近づいたのか? 何の意図があって私にあの粒を渡したのか? 美緒の死で、もがき苦しんだ日のことは今も忘れられない。おばさんに会って理由を聞かなければ。そして真相を確かめねば。
仕事終わりに用紙に記載されている住所に行ってみた。見るからに古そうな家の玄関に、「朝霧」の表札がかかっていた。玄関から家屋に沿って細長い庭があり、隅っこに少し土が盛り上がった個所があった。「みいこ」と書かれた札が立てられ、小さなコップに一輪の花が挿してあった。ペットのお墓だろうか。首を伸ばして覗いていると、
「何か用ですか」
後ろから声がした。車椅子の中年の男性の後ろにあの妖精おばさんが立っていた。
「あ、あの、こんばんは」
頭を下げる私に、おばさんはいぶかし気な目を向けた。
「あ、あの、私、野村可奈と言います。ずっと以前にあなたと会って。その、あなた、私に薬を渡したおばさんですよね。妖精とか言って」
おばさんは微かに首を傾げ、少し考える仕草をしてから、
「ああ~っ!」
声にならない声を発した。車椅子の男性が心配そうにおばさんを見上げている。おばさんは私を離れたところに引っ張って行き、
「この先にプルーフという喫茶店があります。すみませんがそこで待っていてもらえますか。必ず後から行きますのでお願いします」
顔の前で両手を合わせ、急いで男性のところに戻って行った。
本当のところは、もうあの日のことは掘り返したくなかった。でもおばさんに会ってしまった以上何もなかったことには出来ない。おばさんは一体誰なのか、私に何をさせようとしたのか。 熱いコーヒーをすすりながらおばさんが来るのを待った。ほどなく現れたおばさんは、
「すみません、怒っておられるでしょう。本当に申し訳ないことをしたと思っています」
椅子に座るなり深々と頭を下げた。
「怒ってるってレベルのものじゃないんですけど」
おばさんが顔を上げたとたん、怒りがこみ上げた。おばさんは大きく頷き、
「あなたの家で起こったことは新聞で知りました。もしかしたらあの粒のことであなたが誤解しているかもしれないと思い、お葬式の日に家まで行ったのですが、とても声を掛けられる雰囲気ではなくて、そのまま帰ってきてしまいました」
おばさんは葬式の後、私が入院したことを知っていた。その後、継母が出て行き、家が売りに出されたことも知っていた。おばさんはゆっくり話し始めた。

車椅子の男性は彼女の息子で名前を朝霧翔平。アパレル会社に就職した翔平は新商品を次々とヒットさせ、新人の頃から有望視される存在だった。異例の速さで役職に付いた翔平は、臨時社員で入って来た川田由紀子に一目惚れし、1年間の交際を経て結婚を申し込んだ。
朝霧三織は翔平から川田由紀子を紹介された時に不穏なものを感じた。興信所を使って調べてみると、彼女には数々の男性遍歴があり、その何れもがいい別れ方をしていなかった。息子にそのことを話し、結婚を思い留まるように説得したが、それでも息子は川田由紀子を愛していると言った。娘の美緒も既に翔平をパパと呼んで慕っており、何を言っても引かない息子の決意に負けて母は結婚を承諾、新居となるマンションに親しい友達を呼んで披露パーティーをすることにした。
パーティーの前日、由紀子と美緒がマンション5階のベランダに出て翔平が帰ってくるのを待っていた。辺りが薄暗くなり始めた頃、
「パパだ」
遠くの方から歩いてくる翔平を見つけた美緒が、勢いよく玄関を飛び出した。マンションを出て翔平に向かって走っていく娘をベランダから見ていた由紀子が、直後に「ああっ!!」と叫んだ。横道から猛スピードで曲がってくるバイクが見えたのだ。
「美緒ダメ、止まりなさい!」
翔平に気を取られている美緒に、母の叫びが聞こえない。
「美緒、止まりなさい、美緒!」
由紀子の絶叫に気付いた翔平が美緒に向かって走り、身体ごと美緒に覆いかぶさった。翔平はバイクに撥ね飛ばされ、運転手はバイクごと前方の樹に激突した。美緒は軽傷だったが、翔平は頭蓋骨骨折と脊髄神経損傷で、今後、自力での歩行は困難だろうと言われた。
川田由紀子が見舞いに来たのは最初の1か月間だけ。その後、姿を見せたのは2か月も経ってからで、別れたいと言ってきた。事故から3か月で川田由紀子は娘と共に翔平の元から去って行った。
「仕方ないよ、足だけじゃなく手もまともに動かせない、こんな身体じゃ仕事も続けられないからね。彼女の未来を奪う権利は僕にはないんだよ」
悲しげにつぶやく息子に、母は溢れ出る怒りを抑えることが出来なかった。川田由紀子が可奈の父である野村通夫と再婚したのはその2年後。朝霧三織は事故の時に下りた保険金の全てを最新医療につぎ込んだが、期待ほどの改善が見られず、
「あんたのせいで息子の人生が奪われたというのに、わずか2年で金持ちの社長と結婚とはどういうことだ」
母親の憎悪は膨れ上がり、川田由紀子を殺してやりたいと思うようになった。

野村通夫の先妻の子、野村可奈が由紀子に邪険にされているという噂を聞いた。暫くして、刑法第四一条の「14歳に満たない者の行為は罰しない」 と書かれた法律記事を目にし、14歳未満の少年が殺人を犯しても刑法上の責任能力が問われないということを知った。
朝霧三織は考えた。現在11歳の野村可奈を利用して由紀子を抹殺する方法がないだろうか。青酸化合物などの薬物は製造から販売まで厳しく規制されており、一般の者が手に入れるのは極めて困難である。園芸用の農薬は臭いがきつくて使えない。科学的な薬物ではなく素人でも簡単に手に入り、かつ事件性が立証され難いものとは何か。
平成初期に日本中を震撼させたトリカブト事件を思い出した。トリカブトは主に山林に生息し名前通り、鳥の兜のような形の白や紫の美しい花を咲かせる。植物の中では最強の毒性を持ち、人や動物が大量摂取した場合はほぼ即死、少ない量でも2~6時間で死に至る。
先のトリカブト事件では心筋梗塞と診断され、犯人は一審では無罪になったが、後に無期懲役を言い渡されている。あの殺人者の場合は結婚を3回繰り返し、全ての妻が突然死するという保険金詐欺がからんでいた。由紀子がトリカブトの摂取で死亡した場合も、普通なら心筋梗塞の診断になる。死因が疑われた場合は監察医による解剖が行われ、過去の男性関係から朝霧翔平にも疑いがかってくる。しかし翔平は半身不随で立つことが出来ない。あの家には防犯カメラも取りつけてあり、目立ちやすい車椅子で息子があの家に近づくことは不可能だ。
小学生の娘二人にもなんらかの状況を聞かれるだろう。可奈は答えるかも知れない。
「自分が薬を混ぜた」
「薬は妖精から貰った」
「その薬は心臓麻痺を起すと言われた」
「妖精は自分以外の人には見えないと言った」
意味不明の説明に捜査官は頭を抱える。そして何より彼女は14歳未満の少年であり、たとえ犯人だとしても刑事事件として扱われない。朝霧三織が書いたシナリオは完璧だった。

数十種あるトリカブトの中でも北海道のエゾトリカブトは毒性が強い。ネットで購入すると記録が残るので直接現地まで買いに行った。特に毒性の強い根の部分だけを切り取って家に持ち帰り、ミキサーで撹拌。ニオイを誤魔化すためにコーヒーの粉を混ぜて小さな玉を作った。
だが、本当に効力があるのか自分で舐めて確かめることは出来ない。公園にいる人懐こい野良猫を連れて帰り、缶詰に混ぜて与えた。お腹を空かした猫は餌に飛びつき、1分も経たないうちにその場にもんどりうった。恐ろしさで身体が震えた。しばらく呆然としていたが、
「申し訳ありません。私を呪ってください」
冷たくなっていく猫に手を合わせ、バスタオルで包んで庭に埋めた。
次の日、学校から帰ってくる野村可奈を待ち伏せして声を掛けた。警戒されないように笑顔を絶やさない。すぐに受け取ると思っていたが、可奈は簡単には受け取らなかった。だんだんイライラし、一日待ってもらいたいと言った時に、
「そんな都合のいい話はありません」
大きな声を出してしまった。
「あ、すみません。貰います、お願いします」
泣きそうな顔で自分の服を掴み、90度に身体を折り曲げる少女を見て、はっと我に返った。私はこの子に何という恐ろしいことをさせようとしているのだ。たとえ罪にならなくても人を殺した罪悪感は一生付いて回る。この子の人生を滅茶苦茶にする権利が自分にあるはずがない。ビニール袋を渡す寸前で思い留まった。

「私はあなたに毒薬を渡していません」
おばさんは私の目を見て言った。毒薬を渡していない?
「まさか」という思いと「やはり」という思い。
しばらく言葉が出なかった。あれから12年も経っている。頭では分かっていた。妖精なんて存在しないんだから毒薬なんて貰うはずがない。分かっているはずなのに未だ現実を把握し切れていない自分がいた。おばさんはバッグをから小さな菓子袋を取り出し、
「あなたに渡したのはこれです。コーヒー味のラムネです」
中から一粒の玉を掴んで手のひらに乗せた。
「あなたに最初に見せたのが本当の毒で、その後あなたの手から一旦取り上げてバッグにしまいました。覚えていませんか?」
最初に見たのが本当の毒? それはバッグにしまった? そんなこと覚えているはずがない。
「本物の毒はあの後廃棄しました。あの時あなたに渡したのはこのラムネ玉です」
おばさんは手に持ったラムネ玉を自分の口に入れ、もぐもぐ動かして見せた。あの時の粒はラムネ玉だった? 確かに粒をコーヒーに入れた時に少し発泡した。あの発砲はラムネの成分だったというのか。
「コーヒーラムネは息子が大好きで、車椅子生活になってからも外に出る時はいつも持ち歩いていました。あの時、粒を渡す直前に、あなたの純真な姿を見て我に返りました。自分は何をしようとしているんだと怖くなりました。でも行きがかり上渡さない訳には行かなくて、ラムネ玉にすり替えて渡しました。だから、あなたは毒薬なんか貰わなかったのです」
おばさんの言葉に呆然となった。今頃何を言っているのかと思った。たかがラムネ玉のせいで私は死ぬほどの苦しい思いをさせられたというのか。あの時の恐ろしい光景は今も夢に出てくるというのに。
「私の手があなたの体を突き抜けましたよね。あれは何だったのですか?」
忘れられないあの時の気味の悪い感触、ずっと手のひらに残っていた。
「すみません、子ども騙しのトリックです。川田由紀子を殺す目的で未成年のあなたを利用しようと思いました。でも死んだのが川田由紀子ではなく彼女の娘と聞いた時は驚きました。私の中でそういう想定は全くなかったからです。その後にあなたが身体を壊して入院したと聞いて、もしかしたらあの粒を使ったことが原因で身体を悪くしたのではないかと思いました。
でも実際には毒を渡していないのでそれ以上深く考えませんでした。あなたが退院されたら改めて説明に行こうと思っていたのですが、次にお宅に行った時は表札が外れていて行き先が分かりませんでした。本当に申し訳なかったと思っています」
おばさんは何度も頭を下げた。冗談じゃない、自分の復讐の為に子供を利用するなんて下衆の極みじゃないか。頭を下げたくらいで許せると思っているのか。
「あなたは子供の私に殺人をさせようとしたのですよ。あなたから貰った毒薬を妹の飲み物に入れて、次の日に妹が死んで、私は殺人を犯したと思ったんですよ。妖精に貰った薬で妹を殺したなんて言って誰が信じますか? 誰にも話すことが出来なくて、自分の中で思い詰めて、ひたすら自分を責め続けて、ただ呼吸しているだけの私の苦しみがどれほどだったかあなたに分かりますか? その時、私はまだ12歳だったんですよ。あなたは妖精なんかじゃない、最低の悪魔ですよ」
コーヒーの入ったカップを投げつけてやりたいと思った。力任せに殴ってやりたいと思った。でも身体が動かなかった。涙が溢れて止まらない。
おばさんも泣いていた。おばさんが何で泣くのか。自分がしたことの後悔の涙? 私に対する謝罪の涙? おばさんが泣くのは卑怯だと思った。
「帰ります」
もうこれ以上ここには居られない。バッグを掴んで立ち上がった。
「野村さん、息子の命はもう長くありません。あなたを苦しめた罰は受けなければいけないと思っています。その償いは息子がこの世からいなくなってから必ずさせて貰います。それまで待って貰いたいのです。お願いします」
おばさんはテーブルに頭をこすりつけた。
「仰ってる意味がわかりませんが」
怒りで震えながら、おばさんを睨み付けた。
「すみません、あなたに償いをしたいという意味です。子供を騙すなんて最低の行為でした。あの時の私の頭の中には川田由紀子への憎しみしかありませんでした。その憎しみの持って行き方が間違っていました。卑怯な真似をして本当に申し訳ないと思っています」
おばさんが頭を下げるほど怒りが募った。この人の言い訳はもう聞きたくない。尚も言葉を続けようとするおばさんを振り切って店を出た。

本当はおばさんに腹が立っている以上に自分自身に腹を立てていた。退院してすぐに妖精の意味を調べてみた。
”人間の姿をした精霊で超人間的能力を有し、いたずらで遊び好きなものとして西洋の説話・伝説に多く登場する”
と書いてあった。 その地点で、妖精はサンタクロースと同じ並びの架空のものだと理解出来たはずなのに、何故おばさんの存在をいつまでも引きずっていたのか。 何故、嘘つきの大人にからかわれただけと思えなかったのか。 そして、それを未だに切り離せていない自分の馬鹿さ加減に腹が立っていた。
家に帰って自分の部屋に入るなり、その辺の物をはたき落として泣きわめいた。
「可奈ちゃんどうしたの?」
夏子さんが飛んできた。
「もう嫌だ、私はなんというおめでたい人間なんだ。あんな分かりきった嘘を信じていたなんて馬鹿の標本だ。間抜けで世間知らずのあほ人間だ。こんな格好悪い人間、どこを探してもいないってさ」
悲しくて、悔しくて、情けなくて、大声で怒鳴り散らした。 夏子さんは私がわめいている間、部屋の隅で黙って立っていた。
「もう生きていたくない、何のために生きているのか分からない。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ、こんな馬鹿な人間は生きている資格なんてないんだ」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、わめき散らさずにいられなかった。でも興奮は長くは続かない。わめき疲れて興奮が鎮まると、
「可奈ちゃん、苦しくて仕方ない時は誰かに聞いてもらったら気が晴れるものよ。私でよかったら聞かせてくれない?」
夏子さんは、化粧が剥げてぐちゃぐちゃになった顔をティシュで拭いてくれた。
「無理、私の話なんて誰も信じない。私は世間知らずの頭のおかしい子なのよ」
なおも悪態をつくと、夏子さんはプッと吹き出し、
「頭のおかしい子の話、私大好きよ。私も頭のおかしな子だったから」
私の手を掴んで握手してきた。
「施設育ちの私は教養もないただのおばさんだけどね、ただのおばさんだから言いやすいってこともあるでしょ。こんなおかしな話があるんだけど、どう思う?って感じで、気楽に話してくれればいいんだって」
夏子さんのやさしさに、ふわっと気持ちがほどけた。ずっと誰かに聞いて貰いたかった。一生自分の中にしまっておかなければならないと思うと、頭が変になりそうだった。今なら話せる。夏子さんになら話せる。夏子さんにだけしか話せないと思った。
「夏子さん、呆れると思うけど」
前置きすると、
「呆れる話も大好きよ」
夏子さんは笑いながら右手でOKサインを出してくれた。
妖精と名乗るおばさんから人を殺せる薬を貰ったこと。その薬を使ったことで妹が死んだと思ったこと。罪の意識に怯えながら過ごした入院生活のこと。その時のトラウマで、今でも少しのきっかけで時系列が崩れてしまうこと。誰にも言えず、自分の心の底に押し込んできたことを一気に話した。
夏子さんは私が喋り終わるまで一言も口を挟まなかった。話し終わってからもすぐには口を開かず、少し時間を置いてうんうんという風に頷いた。
「そうか、その妖精おばさんは土壇場でブレーキがかかったんだ。可奈ちゃんがおばさんを許せないのはよく分かるよ。ギャグで済ませられる嘘じゃないからね。でもね、おばさんをかばう訳じゃないんだけど、相当追い込まれていたんだと思うのよ。息子さんがあんな身体になった元々の原因はバイクの運転手にあるんだけど、おばさんにしたら彼女の娘のせいになっちゃうんだよね。だから息子に対する彼女の仕打ちが許せなかったんだと思う。
人を殺したいなら自分が直接手を下せば手っ取り早いんだろうけど、それで捕まったら残された息子はどうなるのかと思ったんだろうね、息子を愛するあまりおばさんは鬼になっちゃったのよ。可奈ちゃんは身勝手な大人たちの犠牲になったわけで、可奈ちゃんは何にも悪くない。馬鹿でもないし間抜けでもない、感受性豊かな純粋で素直な女の子だよ」
夏子さんは私の肩を引き寄せ、やさしく抱きしめてくれた。 夏子さんの手も身体も柔らかくて温かかった。
「私もね、昔、人を殺そうと思ったことがあるのよ。その時の精神状態は普通じゃなくてね。人って人生のどこかでこの世から消えてなくなればいいと思う相手が現れるものかもね。でも可奈ちゃんはあの事件に関係ないことがはっきりしたんだから、胸を張ってればいいのよ。
卑屈になる必要なんて何もない。長い間、詰まっていた胸のつかえが下りたんだもの、気持ちを切り替えて堂々と歩いて行けばいいんだよ。私は加奈ちゃんを応援するよ」
私の肩に置いた手を夏子さんはもう一度ぎゅっと掴んでくれた。鉛のように重かった気持ちが風船のように軽くなり、さっきの涙とは違う緩やかで温かい涙が流れ出した。言葉は時に凶器となって人を傷つける。でも言葉によって助けられることもある。今は夏子さんに話せたことがこんなにも嬉しい。夏子さんと家族になれてよかった。これから先もずっと家族でいたい。夏子さんの手から伝わる温もりを感じながら、夏子さんの手を掴み返した。
父が帰ってきたので夏子さんは部屋を出て行った。一人になってこれまでのことを整理してみた。 おばさんは毒を渡していなかった。 自分は毒を受け取っていなかった。 おばさんが子供を騙したことは悪い。 だが毒を渡していない以上、質の悪い嘘をついたに過ぎない。 しかも1年と言われた効力の期限も過ぎていた。 期限が過ぎた後も廃棄せず、それを使ったことで人を殺したと勝手に思い込んだ自分にも非がある。
美緒から侮辱を受けたあの時、確かに美緒に殺意を抱いた。 死ねばいいと思った。 あの粒がなければ台所の包丁で行為に及んでいたかも知れない。 もしくは、階段から突き落としていたかも知れない。 子供でも自分の身の守り方は知っている。 急いで部屋に粒を取りに行ったのは直接手を汚さなくて済む方法を選んだからだ。
結果的にその粒は毒薬ではなかった。それなのに、美緒のあの程度のからかいで抱いた殺意を都合よくおばさんの嘘のせいにすり替え、自分を被害者の位置から外さないでいる、そんな卑しい被害者意識こそ捨てなければならないと思った。

川田由紀子の思い
朝霧三織と再会して1年が過ぎたある日、彼女の管財人だと言う男性が訪ねてきた。
「息子の翔平さんが亡くなられ、その後に三織さんが自ら命を絶たれました」
驚いている私の前に、朝霧三織の遺言証書が置かれた。
”家屋を含む全財産を野村可奈に譲る”
と書かれてあり、遺言証書の他に一通の手紙が添えられていた。
野村可奈 様
息子翔平が死去致しました。
息子は私の生きる支えでした。
息子が亡くなり、私が生きている理由もなくなりました。
身の回りの整理が出来たら息子の元に参ります。
生前、息子は私に気遣って川田由紀子のことは口に出しませんでしたが
亡くなる寸前まで彼女のことを気にかけていました。
心の底から彼女を愛していたのだと思います。
息子の気持ちが分かっていながら最後まで彼女を許せなかった
自分の了見の狭さを、今は恥じています。
そして何より、あなたには大変な苦痛を負わせてしまったことを心からお詫びします。
息子が亡くなった今、私に親族はいなくなりました。
私の謝罪の気持ちを受け取って頂けたらと思い、持ち物の委託をしました。
少しですが収めて頂けたら嬉しく思います。
先日、市役所を訪れた折りにあなたの元気な姿を拝見することが出来ました。
あなたの未来が素晴らしいものでありますよう、心から願っております。
朝霧 三織
胸が傷んだ。朝霧三織はどんな思いで息子の後を追ったのだろう。1年前、彼女が言い残した償いとはこのことだったのか。感情のまま罵声を浴びせてしまった。亡くなる前に、今はもう何の恨みも抱いてない事を言っておきたかった。
管財人が帰ってから父と夏子さんに相談した。親族が存在せず、指定の受取人が遺産放棄すれば最終的に国庫に行くことになる。三人で話し合った結果、翔平さんが苦しんだ難病の基金に寄付することにした。
手続きの一切を委任するために後日管財人の事務所を訪ねた。10階建てのビルの7階にその事務所はあった。手続きを済ませてからエレベーターを待っていると、ゴミ収集のカートを押した女性が通りかかった。何気なくその女性を見てびっくりした。黙って家を出て行って以来、行方がわからなかった川田由紀子であった。
「由紀子さん!」
呼ばれた女性がゆっくり振り返った。清掃会社の制服の胸に「川田」の名札がついている。彼女はしばらく私の顔を見ていたが、やがて、
「ああ、可奈ちゃん」
特に驚いた様子もなく、普通に私の名前を呼んだ。
「お元気でしたか?」
言ってはみたが、明らかに元気そうではなかった。死んだ母より少し年上だったが、まだ50代半ばのはずである。だが目の前にいる女性は人生にくたびれた老婆のようだった。
「今どこに住んでおられるんですか?」
私の問いかけにも、
「この近く」
抑揚のない声が返って来るだけ。ところが、
「この間、美緒さんの十三回忌をしたんですよ。お葬式の後は色々あってちゃんと納骨できなかったけど、今は野村のお墓に納めてあるので一度お参りに来てもらえませんか? 美緒さんも待ってると思います」
美緒の名前を出したとたん、みるみる頬に赤味が差した。落ち着かない表情で顔を撫で回し、絞り出すような声をあげた。
「美緒、美緒、ごめんなさい美緒。あの時、私がガラスを抜かなければ美緒は死なずに済んだのに。美緒はまだ11歳だったのに、私があの子を殺しちゃったのよ」
両手で顔を覆い、やせ細った身体を震わせた。周りの景色はどんどん変わって行ってるのに、この人の時間はあの地点から動いていない。
私にとってもあの日の出来事は忘れられるものではなかった。 でも、私には私を守ってくれる父がいた。父の愛に包まれて息を吹き返すことが出来た。 後に夏子さんというやさしい理解者が加わり、今は充実した暮らしの中にいる。でも、この人は誰にも言葉をかけてもらえず、たった一人で泣いていたような気がする。
「あの、私、今ここに勤めています。何かあったら遠慮しないで連絡してください。少しでもお手伝い出来るかも知れませんので」
名刺の裏に携帯番号を書いて渡した。受け取った名刺に目を落とした彼女は、
「美緒はさ、あなたにジュースを渡そうと思っただけなのにね」
聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。
「えっ、何がですか?」
驚いて聞き返した。
「あの日にね、立派なマンゴジュースの頂きものがあったの。ひと口飲んだ美緒が、物凄く美味しいから可奈ちゃんにも飲ませてあげるって言って、お盆にコップを2つ乗せて階段を上がって行ったの。でも階段を踏み外して転げ落ちてしまった。首に刺さったガラスの破片、あなたの抜いてはダメっていう声が聞こえたのに動転して抜いてしまった。馬鹿な母親ね。美緒を殺したのは私よ」
母親の言葉に愕然となった。美緒は私にジュースを渡すために階段を上がって来ていたのか。あの時、確かに悲鳴の前後にコップ同士がぶつかる音がした。降ってくるガラス片を被ったのかそれともガラス片の上を転げ落ちたのか。黄色いジュースと割れたガラス片が美緒の周辺あちこちに散らばっていた。
ふと美緒が家に来た当初のことを思い出した。チョコやクッキーを持ってきては何かと私に話かけて来た。指を怪我した時は自分が作ったと言うお守りを持ってきてくれた。私はその都度、
「いらない」と横を向いて受け取らなかった。
母の一周期も済まないうちに家に入り込んできた母娘が許せず、家の中から母の匂いがなくなっていく悔しさも手伝って、美緒の行動にいちいち目くじらを立てていた。先に美緒を拒絶していたのは自分。寂しそうに戻って行く美緒の背中を睨みつけていたのも自分だった。それでも美緒はジュースを渡しにきてくれた。私より美緒の方がやさしかった。
「美緒はね、あなたのことが大好きであなたと仲良くなりたかったの。元々人懐っこい子で、私にもお姉さんが出来るって喜んでたの。でも私、美緒をあなたに取られそうな気がして、あなたに近づくことを許さなかった。美緒があなたに意地悪をするようになったのは私に気を遣ってのことで、私が邪魔をしなければ二人はいい姉妹になれてたのよ。
子供に焼きもちを妬くなんて最低な母親でしょ。でも美緒は私の宝物、私だけのものでいて欲しかったの。ごめんなさい、美緒にもあなたにも悪いことをしてしまったわ。私はあなたのお父さんと結婚するまでたくさんの人を裏切ってきたから、神様はそんな私の悪行を見て、私の一番大切なものを奪う罰を与えたのかも知れない。当然の報いなのかもね」
川田由紀子は悲しそうに顔を歪めた。 当然の報い、本当にそうだろうか。 今ならわかる。 幼い子供を持つ母親が、世間と同等で生きて行くには狡さも強かさも必要だということ。 そして、その武器が母親にとってどれほど重要かということも。 彼女は無防備で弱い娘を守りたかっただけ。でも娘を愛するあまり社会のルールを無視してしまった。それを当然の報いというならば、あまりにも残酷な気がする。
「あの、朝霧翔平さんなんですが、少し前に亡くなられたそうです。お母さんの三織さんもその後亡くなられました。三織さんから手紙を頂いたんですが、翔平さんは死ぬまであなたのことを気にかけておられたそうです」
言おうかどうか迷ったが、伝えるべきだと思った。
「どうしてあなたが彼のことを!」
うつろだった彼女の目が見開き、声が大きくなった。
「朝霧三織さんとちょっとした知り合いなんです」
すぐには言葉が出ないのか、彼女は無言のまま私を見つめた。 やがて目のふちが赤くなり、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は静かに話し始めた。
「私の最初の夫はワンマンでね、事業の失敗で大きな負債を抱えてしまったの。火の粉が振り掛かるのが嫌で、苦しんでいる夫を見捨てて家を出たんだけど、幼い美緒を抱えての生活は想像以上に大変だった。
翔平さんの会社で働くようになって、仕事を教えて貰ううちにお付き合いが始まったんだけど美緒がいたから結婚は無理だと思ってた。でも翔平さんは、僕が美緒ちゃんのパパになってあげるよって、結婚を申し込んでくれたの。嬉しくて嬉しくて今度こそ幸せになれると思った。でもそんな都合のいい幸せはこなかった。
走ってきたバイクから美緒を助けようとして、翔平さんは大怪我をしてしまったの。母親の反対を押し切って私との結婚を選んでくれたのに、再起不能と分かった途端に現実から逃げてしまった。最初の夫の時と全くおんなじ、卑劣な逃げ方。
暫くして、あなたのお父さんの会社で働くようになったんだけど、病気の奥さんがいると知って、私の方からお父さんに近付いて行ったの。狡い女でしょ? 天罰が下りて当然よね。今更だけど、あなたを含めて私が泥をかけたすべての人に謝らなければと思ってる。可奈ちゃん本当にごめんなさいね」
川田由紀子は両手を前に添えて深々と頭を下げた。その彼女の左手薬指にキラリと光るエタニティリングがあった。
彼女が父と結婚していた2年間、どの指にも指輪がはめられているのを見たことがなかった。
今、彼女の右手が、そのリングを隠すようにそっと包み込むのを見た時、朝霧翔平が最期まで川田由紀子のことを気にかけていたように、川田由紀子もまた朝霧翔平のことを思い続けていたのではないだろうかと思った。
「朝霧さんのお墓の場所も聞いてますので、よかったら一緒にお参りに行きませんか?」
出来るだけ穏やかに言った。 彼女はゆっくり頷いて、
「そうね、そう出来たらね。でも美緒のことも翔平さんのことも、もういいの。私にお墓参りは似合わない。それに余計なことをするとまた神様に叱られちゃうから」
自分を嘲るような薄笑いを浮かべて、進行方向に歩き出した。何か言って引き止めなくてはと焦り、角を曲がりかけた彼女の背中に、
「あ、あの、もしかしたら原因はガラスを抜いたことじゃなくて、頭部に受けた衝撃でもあるんじゃないでしょうか」
館内に響く程の声で叫んだ。一瞬立ち止まった彼女だったが、そのまま振り返ることなく行ってしまった。
人の運命なんて一瞬の出来事で変わってしまう。朝霧翔平が事故に遭わなかったら、今頃は家族で幸せな日々を過ごせていただろうか。数年後には新しい命にも出会えたかも知れない。去っていく彼女の後姿があまりにも小さくて、それ以上掛けるべき言葉が見つからなかった。

がけっぷちからの出発
その後、半年経っても川田由紀子からは何の連絡もなかった。気になって清掃会社を訪ねてみたが既に在籍しておらず、担当者に事情を話して登録時の住所を教えてもらった。しかし何度訪ねても応答がないので、隣の人に聞いてみると、2か月ほど前に布団や冷蔵庫を軽トラックに積み込んで出て行ったという。生活用品を持って引っ越すということは、生きる気力がある証と勝手に判断し、これ以上探さないでおくことにした。
何かの本で読んだことがある。
がけっぷちの人生も何度か経験するとがけっぷちでなくなる。
それは一つの節目になるからだ。
人は挫折の中で立ち上がり、節目ごとに強くなって行く。 彼女の身に起きたすべてのことも節目であって欲しい。そしてそれは私も同じ。約束がなくても、縁があればいつかまたどこかで会える。その時は昔の元気な姿で会いたい。 私が覚えている、自信に満ち溢れた川田由紀子であって欲しいと思った。
-- 終 -- |