夜の十時過ぎ、電車内は空いていた。ウトウトしていたら横の方から歌を口ずさむ女性の声が聞こえてきた。何の曲だったかなぁと思いながら顔を向けると、以前弁当屋でパートをしていた時に仲の良かった原田さんだった。
「あれっ、原田さん」
原田さんがこっちを見た。 弁当屋を辞めてから2年経っていた。
「あらっ香川さん、お久しぶり」
原田さんが隣に移動してきた。
「仕事の帰り?」
「ううん、兄の家に行った帰りなの、香川さんは?」
「私は親戚の法事、この頃そっち関係の外出が多くてね。出費が嵩んじゃって大変よ」
「ほんと食費よりその方にお金が消えていくわね」
二人で苦笑いした。
「原田さん、まだパート続いてるの?」
原田さんは私が弁当屋で働き始める前からの先輩だ。
「それがね、先月で辞めちゃったの。今は朝の仕事だけ」
「どこか身体の具合でも悪いの?」
「ううん、身体は大丈夫なんだけど朝晩働いてお金を貯める必要がなくなってね。これからはゆっくり生きようかなと思って」
原田さんはいつも元気で、私が病気でパートを辞めるまで5年間、しおれた原田さんを見たことがなかった。でも今日の原田さんはどこか元気がなく、声のトーンも低い。
「何か心配事でもあるの?ちょっと元気がないように見えるけど」
顔を覗き込むと、原田さんは力なく笑った。
「元気ねぇ、うんないのよね。三年前に息子が転勤で東京に行ったって言ってたでしょ、その息子がこの間結婚したんだけどさ、色々あってね」
鞄からペットボトルのお茶を出して一口飲んだ原田さん、ふう〜っとため息をついた。

原田さんは現在52歳で私と同い年。原田さんのご主人はすでに他界していて当時小学生だった息子さんを一人で育ててきた。朝は派遣社員で事務仕事、夜は弁当屋で3時間のパート。 2つの仕事を掛け持ちしながら息子さんを大学に通わせたが、その息子さんが大手IT企業に就職し、3年前に東京本社に転勤になった。
しかし息子さんが家に帰ってきたのは翌年の正月だけ。 仕事で忙しいのだろうと思っていたらお金持ちの家の恋人が出来て2年前から彼女の実家に住みついていたというのだ。
息子さんが主任になったのを機に正式に籍を入れることになり、つい先日結婚式に行って来たという。原田さんの親族は原田さんとお兄さん夫婦と叔父さん夫婦の5人。あとは大学時代の友達が3人、転勤前の上司と同僚が2人。式次第はすべて相手方の意向で進められた。そして何より驚いたのは花嫁さんのウエディングドレスが黒だったということ。
「控室で花嫁さんを見た時、何が起こったのか理解出来なくてね、式の直前に誰か大切な人が亡くなったのかと思っちゃった」
原田さんの目が大きくなった。ウエディングドレスが白という決まりはない。特に黒のベルベットはお祝い事などで着る華やかな素材だ。洋服の素材として一番格が高いのがベルベットとも言われている。 ただドレスだけでなく、式の全てが原田さんが想像していた結婚式とはかけ離れていて、花嫁さんの友人側の異常な盛り上がりにも違和感を覚えたという。
「息子は完全に私の手から離れちゃった。彼女を連れて挨拶に来た時にそう思ったし、黒いウエディングドレスの花嫁さんは実に凛としてて“私は何色にも染まりませんよ”って宣言されているような気がしてね、馬鹿みたいにずっとテーブルの花を見ていたの」
温厚な原田さんのギリギリの悪口を聞いた気がした。

「黒いウエディングドレスねぇ、私も見たことないなあ。でも原田さん、何色にも染まらないというのは思い過ごしじゃない?今は個性の時代だし、ほら、人と同じのは嫌だって言う人がいるじゃない?単に黒が好きなだけってことじゃないの?」
気の利いた言葉が見つからず、ありきたりの慰めを言ってしまった。原田さんは小さく笑い小さく頷いた。
「そうよね、被害妄想かもね。私も他人のことだとそう思えるんだけど、自分のこととなるとそうはいかないのよね。送られてきた立派なフォトフレームも飾る気になれなくて押入れに突っ込んだままなの。素直に喜べばいいのにね」
息子さんが一人前になる日を心待ちにしていた原田さん。成長した息子さんが近くで所帯を持ち、可愛い孫たちに囲まれた自分が笑っている。そんな未来図を描いていたのかも知れない。頭では理解出来てもそう簡単には受け入れらないのが現実なのだろう。息子さんの結婚式の為にと用意していたお金も、
「まだまだ、これからお母さんにはしてもらわなければならないことがあると思いますので、その時にでもお願いします」
相手の父親は受け取らなかったという。 先方の過ぎた心遣いが、原田さんの自尊心を傷つけたことに息子さんは気が付いているだろうか。
「母さんごめん、いつか自分で家を建てて母さんを呼び寄せるから、それまで待ってて」
帰る時に息子さんが言ったそうだ。 言いたいこと、言っておきたいこと、色々あったけど、向こうの両親が息子のことを気に入ってくれているのは有難いことと受け止め、マスオさんになった息子には余計なことは何も言わずに帰ってきたという。
「本当はあなたの奥さんとは一緒に住めないわ、って言いたかったんだけどね」
原田さんが苦笑した。
「でもね、なるべくしてなったというか、仕事仕事で息子を構ってやれなかっツケが回ってきたのかなぁって今になって反省してるの。朝、息子が学校に行ってから自分も仕事に出て、退社後に一旦戻って息子の夕食の用意をしてまた出かける。帰るのは10時過ぎ。寂しい思いをさせているのが分かっていながら息子が寂しいって言わないのをいいことに仕事を続けていたの。あの時あの子が味わった寂しさを今は私が味わってる。言い訳するつもりはないけど1円でも多くお金を貯めたかったのよね。いつ何が起こるか分からないし、お金がないことで世間から馬鹿にされたくないという思いもあって、何もかもが怖くて仕方なかったの。あの子から見る私の目はいつも吊り上ってたと思う。弁当を売る時の笑顔を何故息子に向けてやらなかったのか、ほんと情けない母親だった。家庭の温かさに飢えていた息子があの家に吸い寄せられたのは必然の道理かも知れない。私に息子を非難する権利はないのよ」
懺悔するかのような原田さんの言葉。母親の辛さ、悲しさ、悔しさが私の胸を突いた。

小さな子供を抱えた女性が父親役と母親役を同時にこなすなんて体操のG難度の技に近い。母も子も選択肢のない日々と闘っていたのだ。息子さんに会ったことがないのでどういう性格の持ち主なのかは分からない。でも世界中の誰よりも貴方を大切に思っている母親の気持ちを無視しないで欲しい。今の幸せが溢れるような母親の愛情の上に立っていることを忘れないで欲しい。
「母親って割に合わないものだわね」
原田さんが寂しそうに笑った。自分が一番大切にしていたものが指の間から滑り落ちて行く。
拾ってくれる人もいなければ、手を添えてくれる人もいない。 それはダメージが小さかろうが大きかろうが関係のないこと。自分自身で状況を受け入れ自分自身で消化していくしかないのだ。
「でもね原田さん、割に合わないことが出来るから母親なんじゃない?私には子供がいないから割に合わないことはないんだけど、割増しの喜びも味わったことがないのよ。結婚後すぐに流産して、それから子供が出来なくなっちゃったからね。それはそれで辛かったのよ」
子供が欲しくて数えきれない程、病院に通った。 子供が出来ないことで自分は女としての価値がないとまで思い詰めた。悲愴な思いで努力を重ねた十年間、しかし妊娠の兆候は見られず治療を断念した。
最後の診察からの帰り道、段ボールに入れられた3匹の捨て猫を見つけた。 手のひらに乗るくらいの小さな兄妹猫たち。あどけない6つの瞳に吸い込まれ、段ボールを抱えて帰った。
俄かに忙しくなり凝り固まっていた悲しみが紛れた。 子猫が成長するにつれ妊娠への執着心がなくなり、愛情を注ぐ対象は子供だけではないことを教えられた。
今はすっかり年老いた猫たちが、私にとって可愛い子供になっている。原田さんの動きが止まり、私を見つめる口が半開きになった。
「そう、そうなのよ、息子が小さい頃に溢れるほどの割増しを貰ったわ」
頭の中で息子さんと暮らした日々が思い出されたのか頬に紅が差した。
「息子には息子の人生があるんだものね。親子とも病気もせずにここまで来れたことに感謝しなくては。息子が幸せならそれでいい、これ以上欲張っては罰が当たっちゃうわね」
原田さんに昔の笑みが戻った。
「猫ちゃん、まだ3匹とも居るの?」
同時に口も軽くなった。
「居るよ、もうすっかりお爺ちゃんお婆ちゃんだけどね」
携帯を出して待ち受け画面の3匹を見せた。
「あれっ、このブスッとした子、うちの息子そっくり」
笑いながら原田さんが指差したのは茶トラの男の子。
「この子ね、一番大きいのに甘えん坊の寂しがり屋なの。臆病で動きも超スローだからご飯も二匹の余りものばかり食べてるのよ」
言いながら、私の顔も緩んで来た。
「いやだ、息子とおんなじ。身体は大きいのに気が弱くてね、いつも強そうな子の後ろに付いて歩いてたのよ」
原田さんが愛おしそうに画面をみつめた。亡き夫の分まで息子さんに注いできた愛情。原田さんにしか分からない息子さんとの思い出。息子さんがいたからここまで頑張ってこれた。母親ってやっぱり強いと思う。

原田さんの表情が柔らかくなったので、
「お金、余ったんだったら、パーっとホストクラブでも遊びに行ったら?」
冗談で言ってみた。すると、
「それがこの間行ったのよ、めちゃくちゃ楽しかった」
原田さんの顔がパッと輝いた。
「こ〜んな大きな頭の男の子が5人も横に来てね、何十万も取られるんじゃないかと心配してたら3万2千円だったの。以外に安いんでびっくりしちゃった」
手で頭の毛のボリュームを表現し、愉快そうに笑った。
えっ、えっ、ええ〜っ、驚いて身体が固まってしまった。
「嫌なこと全部忘れて思い切り騒いじゃった。ホストってほんとにやさしいのよね」
これは大変、ホスト遊びに嵌ったら持ち金なんてまたたく間に吸い取られる。
「原田さん、でもさ、ああいうところってさ、ほら最初は高く取らないで徐々にはぎ取って行くって聞くよ。あのさ、原田さんは人がいいからさ、向こうの思う壺になっちゃうと思うの。だからね、深入りしないうちにね、今のうちにね、止めておいた方がいいんじゃないかって思うのよね。安いったって三万二千円はパートの四十時間分よ。それが数時間で消えちゃうなんて勿体ないじゃない」
焦って口がもたついてしまった。車内はクーラーが効いているのに顔が異常に熱い。手にも汗が滲んできた。すると原田さん、にこっと余裕の表情で、
「いやいや、もう行かないわよ。店が空いてる日でね、帰りに五人全員が外に出て見送ってくれたんだけど、ちょっと歩いて振り返ったら周りは電飾でキラキラしてるのにそこの一角だけ真っ黒だったの。結婚式のウエディングドレスを思い出しちゃってね、これはダメだと思ったのよ」
愉快そうに笑った。ああ、本当に黒が苦手なんだ。 ほっとしたのと可笑しいのとでヘナヘナっとなってしまった。原田さんの降りる駅がきたので、近々ご飯を食べに行く約束をして別れた。

原田さんの口ずさんでいた歌がさだまさしの「案山子」だと気付いたのは布団に入ってからである。
元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか 寂しかないか
お金はあるか 今度いつ帰る・・・
息子さんを初めて東京に送り出した時にも彼女はこの歌を歌っていたのだろうか。原田さん、あなたの想いはきっと息子さんに届いてるよ。あなたはかっこいい母親だよ。まだ52歳なんだもの、これからは自分の為に生きることを考えてね。
帰ったら “豪華お値打ちランチ” 予約しておくからね。

|