「すみません、あなたとは結婚できません」
 彼の言った言葉の意味がすぐには理解出来なかった。仕事で大きなミスを犯し、インドネシアの子会社に出向させられて2年、任期を終えて帰ってきた彼の言葉はあまりにも衝撃的だった。 見送りの空港で、
「戻ったら二人で婚姻届けを出しに行こう。約束だよ」
 そう言って私を抱きしめた彼の言葉は何だったのか。私には長い2年間だった。やっと彼と会える、やっと結婚出来る。その嬉しさで身も心も飛び跳ねていたというのに。
 
 彼との出会いは5年前の従妹の結婚式の日。披露宴が終わって帰り支度をしていると後ろから声を掛けられた。
「突然すみません。僕、新郎の後輩であなたの隣のテーブルにいたものです。ご迷惑でなかったら少しだけお話しをさせてもらえませんか?」
 とびきりの笑顔で名刺を渡された。自社の商品を売りつけようとしているのかと思ったが、華やかな式の後で気持ちが昂ぶっていたこともあり、少しだけならと話を聞く事にした。ところが式場内にある喫茶室で向き合うと、
「あの、唐突で厚かましいお願いなんですが、僕と付き合ってもらえないでしょうか。実は僕、あなたを見た瞬間一目惚れしてしまったのです。胸がいっぱいで折角のご馳走も殆ど食べられなくて、こんな気持ちになったのは初めてなんです。で、その時に、僕が生まれてきたのはこの人に出会うためだったんだ、と気付いたんです」
 聞いてる方が恥ずかしくなるようなセリフをさらりと押し込んできた。初めて会った相手にこんな調子の良い誘い方をする人間がいるのかと、ちょっと引いてしまった。どう答えていいのか分からず黙っていると、
「いま、お付き合いされてる方っていらっしゃいます? だったら潔く諦めますが、そうでなければ是非付き合ってみてください。一見チャラそうに見えますが、見かけに寄らず繊細でいいやつなんですよ、僕」
 口角の上げ方が堂に入っていた。彼の言う通り確かに見かけがチャラかった。だが何故かそのチャラさが不快ではないのが自分でも不思議だった。20代前半で失恋してからは男性とは縁がなく、10歳も年下の従妹の結婚を目の当たりにして、少なからず焦っていた。もしかしたらこれは神様の引き合わせかも知れない。付き合ってみてもいいのではないか。そう思った。
 ところが彼の24歳という年齢を聞いた途端、やっぱり無理だと思った。その時すでに30歳の私は6つも年下の男の遊びに付き合っている余裕はなく、「今後お会いする機会があれば、その時はまた誘ってください」と大人の笑顔で返し、都合10分で席を立った。

  それで終わったと思っていた。ところが数か月後、取引先の会社の前で肩を叩かれ、振り返るとあの時の男性が立っていた。彼はまたも名刺を差し出し、
「こんにちは、先日結婚式場でお目にかかり、あなたに一目惚れした者です。お急ぎでなかったらほんの少しお時間をもらえませんでしょうか?」
 私の顔を覗き込んでにっこり笑った。その日を境に交際が始まり、半年後に彼は私の部屋の同居人になった。田舎にいる彼の母親は不治の病に罹っていて、給料の大半をサナトリウム療養費に充てている為、二人の生活費は私が持っていた。口さがない外野からは、若い男に貢いでる年上の女と陰口を叩かれた。でも、そんなことは気にしなかった。
 私は浪費家でもないしお金のかかる趣味も持っていない。更に特殊技能を取得しているので、同じ年齢のOLよりは多くの給料を貰っていた。私の母は物心つかないうちに亡くなっていて寂しい思いをしたこともあり、もうそんなに長くはない彼の母親を見送るまでは余裕のあるものが生活費を出せばいい、そう思っていた。
 一緒に暮らし始めて2年が過ぎた頃、「ペットを飼える家に住みたいね、僕の給料が上がったら庭のある家に移ろうか」とか「子どもと一緒に家庭菜園なんかもやりたいね」といった言葉が彼の口から出るようになり、正式に夫婦になる日も近いと思っていた。

  「あの時、戻ったら結婚をしようと言った僕の気持ちに偽りはありませんでした。でも向こうにいる間に僕の身の周りにも色んなことが起きました。あなたを待たせておきながら本当にすまないと思っています。自分勝手だと思います。でも、物凄く悩んで、悩んで、悩みぬいた上の結論なんです」
 頭の上で大事なものがはじける音がした。想像もしなかった言葉に何をどう答えていいのか分からない。彼の口の動きが奇妙な生き物に見えた。
「嘘を言ってもいずれ分かることなので正直に話します。実は結婚したい人がいます。出向先で知り合ったインドネシア在住の日本人女性で、両親もインドネシアに住んでいます。あなたのことは大好きでした。でも彼女と出会って、その好きは恋愛感情ではなく、あなたのやさしさに甘えて居心地の良さに胡坐をかいていただけの好きだったと気付いたのです。本当にすみません。彼女が妊娠した地点で言うべきでした」
 唖然としてしまった。2年半も一緒に暮らしていたのに、私とのことは恋愛ではなかったと言うのか。悪びれた様子もなく「居心地がいいだけの好きだった」などと、都合のいい言葉で終わらせようとしているのか。あなたにとって私は居心地のいい保護者でしかなかったと言うのか。
 
 気持を落ち着かせようとコーヒーカップに砂糖を運んだ。1杯2杯3杯4杯、5杯6杯7杯8杯、コーヒーがカップから溢れそうになり、慌てた彼がスプーンを持つ私の手を掴んだ。私は彼の手を払い、ゆっくりコーヒーを飲み干した。苦くもなく甘くもなく味は何もしなかった。カップの底に残った大量の砂糖をひたすらかき混ぜる私に、彼が少し焦った。
「あ、あの、彼女のことだけど、僕が風邪で寝込んでいる時に世話をしに来てくれて、それから時々食事に行くようになって、互いの家を行き来するようになって、そうしている内に彼女が妊娠してしまって、それで責任上、あ、いや、責任上じゃなくて本当に好きだったから産んで欲しいと思って、妊娠が分かった時にあなたに言わなければと思ったんですが、勇気がなくて今日になってしまいました」
 最後の方は聞き取れないほどの小声になっていた。聞きたくない話だったが経過は分かった。だが私は聖人君子ではない。彼女に乗り換えた理由を自分の都合で片付けようとする彼に「分かりました、ではどうぞその方と結婚してください」とは言えない。
 彼の前に置かれたコーヒーを頭の上からぶっかけてやりたい。すぐ横にある幸福をもたらすといわれるガジュマルの小鉢を頭の上に落としてやりたい。今の私はそんな気分だった。しかし法律上、私と彼は赤の他人。籍が入っていない以上、彼の結婚を阻止する権利が私にはないのも確かだった。
 
 彼は鞄から茶封筒を出して、テーブルの上に置いた。
「すみません、今まで沢山のお金を使わせて申し訳ありませんでした。少ないけどお詫びの印です。どうか受け取ってください」
 見るからに薄っぺらな封筒。手切れ金ということか。20万、あっても30万円だろう。差し出された封筒を見つめたまま動かない私に、
「本当に本当にすみません。いつ言おうかとずっと悩んでいました。日が経つにつれて彼女のお腹が少しずつ大きくなってきて、これ以上隠し続けるのは無理だと思って思い切って打ち明けました。本当に申し訳ないと思っています」
 彼はテーブルに頭をこすりつけた。しかしその姿に心からの誠意は感じられなかった。さっさと終わらせて一刻も早くこの場から離れたい、その感が半端ではなく、頭を下げながら舌を出しているんじゃないかとさえ思えた。

 いつ言おうか悩んでいた? 彼女のお腹が大きくなってきたから仕方なく打ち明けた? よくそんなことが言えたものだ。3年前、私が妊娠した時はおろおろして部屋の隅でいじけていたじゃないか。数週間後に流産したと聞いた時は、憑き物が落ちたみたいにほっとしていたじゃないか。私の妊娠は迷惑で、彼女の妊娠は責任重大だと言うのか。流産と聞いてほっとしているあなたを見て私が傷つかなかったとでも思っているのか。
 私の怒りは振り切っていた。でも大声は出したくなかった。ましてや、泣き喚いて男を引き止める姿など他人に見られたくなかった。といって、私の値段がこの薄っぺらな封筒程度なのかと思うと、物わかりのいいお人好しで終わりたくはなかった。
「あ、あの、あなたは美人だし、難しい仕事も絶対に投げ出さない強い精神の持ち主だから、僕なんかいなくても一人で生きていけると思うんです。でも彼女はすごく弱くて僕が一緒にいないとだめな人なんです」
 余りの驚きで目玉が飛び出るかと思った。なんという王子様発言。あっけに取られた。安物のドラマに出てくるようなセリフを、まさか自分が聞かされるとは思ってもみなかった。
 私の呆れ果てた顔を見て、彼はまたも焦った。
「あ、あの、誤解しないでもらいたいんだ。あなたは優秀なスキルを持った人で、挫折なんて関係ない素晴らしい女性だと思うんです。でも僕は期待されて出来る人間じゃないし、仕事の出来ない僕なんかとは釣り合わないと思うんです。だからその、僕には彼女のようなごく普通の女性が合ってると思うんです。その何というか、あなたの人間性をどうこう言ってるわけじゃなくて僕の不甲斐なさを言ってるわけで、あの、ああ、上手く説明出来なくてすみません」
 額から汗が噴き出ていた。この男は一体何が言いたいのか。嘘をついたり不都合を正当化させたい人間は言わなくていいことを必要以上に喋りまくる。結果、ドツボに嵌ってしまうのだが、あまりの馬鹿々々しさに、もはや怒る気力も失せてしまった。彼の何もかもが一気に色あせて見え、こんな男に熱を上げていた自分が情けなく思えた。



 彼の期待するベストな答えは分かっている。でも私はそんな答えは出さない。泥水を浴びせられたまま黙って引き下がるのは余りにも自分が惨め過ぎる。逃げ得は許さない。別れる前に意地の悪い制裁をしてやろう思った。
「あなたは出会いも終わりもいつも突然なのね。いいわよ、別れてあげても」
 顔を上げた彼の顔がストップモーションになった。数秒だが息も止まったようだ。我に返った彼は大きく息を吐き、ほっとしたように力を抜いた。
 とにかくこの状況から解放されたい彼に、もはや一片の未練もなかったが、悔しさは残る。あなたと暮らした2年半を返してくれなんて陳腐なことは言わない。でも、あなたに使ったお金は返して貰いたいと思った。
「これ、どうする?」
 スマホを出して彼とのラインのやり取りを見せた。ラインにはインドネシアに行ってからも将来を約束する彼からの愛に溢れた言葉が連なっていた。他人が見たら失笑ものの言葉に、それでも私は嬉しくて額面通りに受け取っていた。
 案の定、彼はびっくりして身を引いた。
「私の大事な記録、ただで消すわけにいかないのよね。それ相応の慰謝料は払って貰わないと。あなたにお金がないなら彼女のご両親に出してもらってもいいんだけど」
 私を見る彼の慌てぶりは尋常ではなかった。
「お金は僕が何とかする。彼女の親には近付かないでくれ。いくらならいいんだ」
 焦って大きな声を出した。一緒に暮らしている時は敬語なんて使わなかったのに、今日は敬語を使うんだと思っていたが、興奮すると敬語じゃなくなるのが面白いと思った。
「金額はあなたの誠意の問題で私が決めることではないわ。奥さんになる人と相談すればいいんじゃない? まあ基本的にはあなたに使ったお金すべてかな」
 言いながらピンクのスマホをテーブルに置いた。二人で行った携帯ショップで、彼が選んでくれたピンクのスマホだった。思い出が詰まったそのスマホに彼が手を伸ばした。
「あ、ラインの内容ね、パソコンに転送してるからこれを奪っても無駄よ。そうだ、彼女も貯金くらいあるでしょう? 少し協力して頂いたら?」
 何という意地悪な女、絶対に目が吊り上がっている。自分で感じていながら気持を抑えることが出来なかった。案の定、彼はむっとして私を睨んだ。
「彼女には関係ない」
 唇が前に突き出ていた。
「ふ~ん、そう、関係ないんだ。どうしてかしらね。ま、別にいいんだけどね。じゃぁ、都合が付いたら連絡してね」
 外食した時に伝票を掴むのはいつも私だった。でも、今日初めて伝票を残したままテーブルを離れた。出口に向かう途中視線を感じ、その方向に目をやるとマタニティ姿の女性が慌てて目を伏せた。一緒に帰って来ていたのか。彼の中では私はもうとっくに過去の存在になっていて、彼女の監視の下、一方的に解雇通知を突き付けられていたってことか。
 
 約束を平気で反故にする男なんかと別れて正解だったんだ。帰り道、何度も何度も自分に言い聞かせた。なのにマンションのドアを閉めた途端、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
 指の間をするりと抜けていった幸せ。嫌だ嫌だ、なんであんなやつの為に涙を流すんだ。今日は私の35歳の誕生日だったのに。人生で一番嬉しい記念日になるはずだったのに。悲しくて苦しくてたまらない。泣きたくない、泣きたくないのに涙がこぼれる。
 ベッドに倒れ込み、窓の外が白くなるまで天井を見ていた。

  一週間後、彼から電話が来た。300万円用意したという。多くても100万くらいだろうと思っていたから300万という金額に正直驚いた。数か月前に亡くなった母親の死亡保険金の全額だと言う。新生活に向けて要り様のお金もあるだろうに、何が何でも彼女の両親には知られたくないということだろうか。
 落ち合う場所は職場近くの公園にした。公園には彼が先に来ていた。ベンチに座ると彼は二つ折りの書類袋を差し出した。
「確かめてください」
 書類袋の中には銀行の帯の付いた束が3つ入っていた。私はバッグからスマホを取り出すと、彼の目の前でラインの全てと二人で写っている写真全てを消去した。
「あの、パソコンに送ったデーターは?」
 彼が不安そうに私を見た。
「嘘よ、転送なんてしていないから。そんなものを大事に保管しておいても鬱陶しいだけでしょう。今後私から連絡することは絶対にないから安心して」
 緊張している彼に少し微笑んで見せた。頷きながら、それでも彼はまだ心配そうに私を見ていた。悔しいけれど、終わったと思った。
「ライター貸してもらえる?」
 私がタバコを吸わないのを彼は知っている。一瞬不思議そうな顔をしたが、ポケットから使い捨てライターを出すと私の手の上に乗せた。
 受け取ったライターでお金の入った袋に火をつけ、そのまま地面に置くと大きな炎になった。びっくりするほどの短時間で全てが燃えつき、土の上に燃えカスだけが残った。 彼は声を出すことも出来ず、茫然としていた。
「この形のまま日本銀行に持って行けば、お札と交換してくれるから。赤ちゃんのベッドでも買ってあげて」
 固まったままの彼に背を向けて歩き出した。私にだってプライドがある。人を脅して手に入れたお金なんて使いたくない。彼と暮らした日々はやっぱり楽しかった。これで縁は切れてしまったけど、人生が終わったわけじゃない。思い切り恋をして思い切り振られた。それでいい。終わりは始まりの一歩。これからは前だけを見て行けばいいのだから。
 
 あの後、彼が燃えカスをどう処理したかは知らない。私にはもうどうでもいいこと。でもついこの間、エアコンが壊れて電気屋に機能性抜群の高額商品を勧められたが、機種遅れの安いのを買ってしまった。 その時に一束だけでも取っておけばよかったかなと、一瞬悔やんだ自分が可笑しかった。

 

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