腹を空かせていた子猫は瞬く間にツナの缶詰を平らげた。
”牛乳はお腹を壊すらしい”と小夏が言ったので、新鮮な水をたっぷり飲ませてやった。
「ほんまはツナもあかんと思う、脂で味がついているから。明日猫用の缶詰買うてくるわ、トイレとかもいるし」
空になった皿を洗いながら小夏が言った。
「えっ、何? この子飼うてくれるの?」
ばあさんが驚いた。
「あんた、捨てに行ってくれるの?」
「え、」
「いっぺんでもエサをやったら情が湧くねん」
「うん」
「そやから抱いたらあかん言うたやろ、私こういうのに弱いねんから」
「ごめん、小夏」
「今日は後で風呂入れるわ、なんか臭いし」
ばあさんは嬉しくて涙が出そうになった。小夏に抱きつきたかったが、恥ずかしいので代わりに子猫を抱きしめた。小夏が小さなダンボール箱を持ってきて毛布を敷き、その上に下ろしてやると子猫は安心したように眠ってしまった。眠った子猫を見る小夏の優しい眼差しを見ながら、ばあさんの感動は頂点に達していた。
夕食の用意をしていると圭吾がゴルフから帰ってきた。
「あれっ、ふみちゃん久し振りやなあ」
ばあさんを見て圭吾が声を上げた。数回しか会ってないのに圭吾も小夏と同じように、ばあさんを”ふみちゃん”と呼ぶ。
「今日は調子が良うてな。飛ぶわ飛ぶわ、もうエンジン全開の大活躍や」
ゴルフバッグを部屋の隅に置きながら圭吾は上機嫌であった。
「このくそ寒いのにようゴルフなんか行くわ」
小夏は呆れている。
「お前にはゴルフの楽しさが分からんのんや」
浮き浮きしながらソファに座りかけた圭吾が、足元のダンボール箱で眠っている子猫を見てびっくりした。
「何やこれ」
「猫や」
小夏がぶっきらぼうに答えた。
「そんなもん見たら分かるわ、どうしたんやって聞いてるんや」
「ふみちゃんから、あんたにプレゼントやねんて」
「えっ?」
「すみません」
ばあさんがペコリと頭を下げた。
「そこの公園で拾ったんです。寒さで震えててあまりにも可哀想やったんで連れて来たんです」
圭吾が子猫を覗き込んだ。
「えらい小さい猫やなあ、生まれて間がないんかな」
「ようわからんけど、一か月とかそんなもんと違いますか」
「ふーん、なんや死んでるみたいやな」
「飼うてもらえます?」
ばあさんが圭吾を覗き込んだ。
「小夏がええんやったら僕はかまへんけど」
「小夏はOKしてくれてますねん」
ばあさんの顔が輝いた。
「子供も片付いたことやし、猫を育ててみるのもええか」
小夏も今となっては怒ることもなく、笑顔で二人のやり取りを聞いていた。 食事の用意が済み三人はテーブルに向き合った。すき焼きの炊ける匂いが食欲をそそる。
「ええ匂いやなあ、一人になってからすき焼きなんて食べたことないわ」
卵を解きほぐしながら、ばあさんは嬉しそうだった。
「一人で鍋はたいそうになるもんな」
小夏の言葉に、
「そうやねん、後片付けも面倒やからつい簡単なもんになるねん。茶碗一杯のご飯と一皿のおかずと味噌汁の繰り返しやわ」
ばあさんが嘆いた。
「じゃあ今日は思い切り食べて飲んでください」
圭吾に促さればあさんは鍋に手を伸ばした。真っ先に肉を掴んで口に入れる。少し贅沢して買った高い肉は柔らかくて、旨味が口の中に広がった。
「美味しいなあ、はりこんでよかったな」
小夏とばあさんが顔を見合わせて笑った。圭吾もお腹が空いていたのか食欲旺盛であった。世間話をしながら全員が満腹に近づいた頃、チャイムの鳴る音がした。席を立った小夏が戻ってくると圭吾に言った。
「岩永さんのご主人が亡くなりはってんて、ちょっと行ってくるわ。ふみちゃんゆっくり食べててな」
ソファに脱ぎ捨ててあったジャケットを羽織り、小夏が出て行った。
「岩永さんか、まだ60過ぎやのにな。半年程前に胃ガンの手術をしたとは聞いてたけど、そうか亡くならはったんかあ」
圭吾がため息をついた。
「その人、自分でガンやいうこと知ってはったんやろか」
ばあさんのトーンも低くなる。
「今は特別な場合を除いて告知するみたいやけどね。自分もガンに罹ったら絶対告知して欲しいと思う。自分の病名も知らんと体中チューブだらけにされるんは嫌やもんね。死ぬまでにやっておきたいこともあるし」
「そうやなあ、私も知らせて欲しいと思うけど、いざそうなったらショックが大きいやろね」
「死ぬいうことは永久に目が覚めへん言うことやな。でもその目が覚めんということがどういうことか、よう分からんねんな」
圭吾が首をひねった。三途の川を渡った先に何があるのだろう。死後の世界は本当に存在するのだろうか。考えても答えなどないのに何故か考えてしまう。
「僕は今病気じゃないし、余命を宣告されたわけでもないけど、そうか言うてあと何十年も生きられるわけじゃないから、この際にふみちゃんに伝えておきたいことがあるねん」
圭吾が真面目な顔でばあさんを見た。
「ふみちゃん、僕と同じ小学校やったん知らんやろ?」
「えっ」
「僕が六年生の時やねんけど、ふみちゃんの描いた絵が全国で一位になって朝礼で表彰されたことがあったやろ? その時のふみちゃんの姿を見て、ああ、あの子と友達になりたいなあって思ったんや。ある雨の日、道端で転んだふみちゃんを見つけて、ここぞとばかりに傘を差しかけたら、えらい勢いで逃げて行かれた。焦って怖い顔をしてたんやろなぁ、仲良くなれる最大のチャンスやったのに下手打ってしまったわ。それでも卒業するまでに声を掛けるチャンスは何回かあったのに、遠くからふみちゃんを見ているだけで、何も出来ずに終わってしまった。ほんま、へたれな男やったわ」
ばあさんはびっくりして圭吾を見た。
「大人になったふみちゃんと再会した時、僕には小夏という婚約者がいた。というか、婚約者がいたからふみちゃんと再会出来た。でももう後戻りは出来へんかった。初恋は実らないって本当やなあって思ったわ」
圭吾の思いも掛けない告白に、ばあさんの心臓が音を立てていた。喉もカラカラになっている。
「ふみちゃんは僕のことなんか覚えてないやろうけど、僕はずっとふみちゃんのことが気になってた。新造さんが亡くなるまでは口が裂けても言えんかったけど、人生も残り少なくなったことやし今なら言える」
喉が渇いたのか、圭吾はビールを継ぎ足して一気に飲んだ。
「ありがとう圭吾さん、なんか嬉しい」
ばあさんが圭吾を好きだったように、圭吾もまたばあさんを思ってくれていたのだ。まさかこの年になってそんな告白をされるとは夢にも思っていなかった。圭吾の初恋の相手が自分だと知って素直に嬉しかった。
「でも僕は小夏と結婚したことをこれっぽっちも後悔してへん。小夏は僕には過ぎた嫁はんや。小夏のお陰で幸せな結婚生活を送れたと思ってる。初恋は初恋、嫁はんは嫁はんやからな。比べられるもんやないわ」
圭吾の言葉が胸を突いた。今更圭吾に望むことは何もない。自分を認識してくれていたことが分かっただけで充分だった。 言葉に出しては言えなかったが、
「いつまでも小夏を大事にしてあげてね」
心の中で圭吾に手を合わせていた。食事の後片付けが終わった頃、小夏が戻って来た。
「故人の希望で葬式は身内だけの家族葬にするんやて」
「ああ家族葬な、葬式って生きてる人間の見栄みたいな所もあるから、無理せんと俺の時も家族葬でええで」
圭吾が言うと、
「しょうむないこと言わんといて、そんなことは私が決めるからいらん心配せんでええねん。それにどっちが先かわからんやん」
小夏が苦笑いした。 二人のやりとりを聞きながら、ばあさんは三年前の夫の葬式のことを思い出していた。式の相談をする子供がいなかったので、すべて葬儀屋に一任した。家族葬であろうと一般葬であろうとどっちでもよかった。ただ悲しくて、夫が死んだという事実を受け止められなかった。そのショックたるもの親が死んだ時の比ではなく、いつ葬式が始まっていつ終わったのか、気が付けば誰もいない家の中で夫の遺影を抱きしめていた。
あれから三年、ばあさんの身内は他県にいる妹一家だけになっていた。管財人を置くほどの財産はないが、自分が死んだ時の最低限の身辺整理はしておかなければと思った。
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