ククサ
 


 徹は変わらず植物状態のままであった。植物状態とは大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態を指すが、脳幹や小脳の機能は残っていて自発呼吸が可能である。まれに回復することもあるので脳死とは根本的に違う。脈は正常、呼吸も一定、でも目を覚ますことのない残酷な状態に母親と妹の疲労も極限に達していた。 
 とにかく情報が欲しい。どんなに些細なことでも証拠になり得る糸口を見つけたい。事故現場を言ったり来たりしているうちに、気が付けば山城麻衣の家の近くまで来ていた。
 一旦立ち止まって辺りを見回していると、
「泥棒、泥棒~!」 
 後方から女性の叫び声がした。振り返ると自転車に乗った男が猛スピードで近づいている。咄嗟に男の顔の前に腕を出し、びっくりした男が「あ~っ」と叫びながら自転車から転げ落ちた。肩を傷めたのか、だらんとなった片方の手を抱き、起き上がるなり進行方向に逃げて行った。後から走って来た女性を見ると、なんと山城麻衣であった。男が盗りそこなったバッグを差し出すと、
「すみません」 
 肩で息をしながら頭を下げた。以前から屋根の雨漏りがひどく、修理代の支払いの為に銀行にお金を下ろしに行った帰りだと言う。銀行からつけてきた男がタイミングを見計らってひったくったのだろう。乗っていた自転車も盗んだ物なのか、サドルがボロボロで鍵も付いていなかった。このままほっておくわけにも行かず、取り敢えず彼女の家まで押して歩いた。

 家の前まで来ると、
「お茶を飲んで行って下さい」 
 小さな声で麻衣が言った。玄関を入ってすぐ横が応接室になっていて、ソファもテーブルも高価そうではあるが、いつから使っているのかと思うほど古ぼけていた。
 応接室から一旦出て行った麻衣が、お盆にコーヒーを乗せて戻ってきた。インスタントではないようで、とてもいい香りがした。テーブルを挟んで向かい合った形で話のきっかけを探していると、
「古い家でしょう?」 
 麻衣の方から話しかけてきた。 
「そうだね。何年くらい?」 
「70年くらいかな」
「70年?」 
 周りの置物もそうだが、天井の梁に使われている重厚な木材彫刻には、価値の分からない僕でも目を奪われる素晴らしさだった。 
「一人で住んでいるんだって?」 
 詮索するつもりはなく、話を繋ぐために聞いてみたのだが、
「向かいのおばさんの情報? ほんとお喋りなんだから」 
 口がへの字に曲がった。 
「でもまあ何を言われても別に構わないんだけどね、おじいちゃんが死んでから時間が過ぎるのが遅くてさ、一人でいると1日が48時間くらいに思えちゃう」 
 カップを口に持っていきながら、ふっと笑った。彼女が笑うのを初めて見た。笑うと意外に幼くて、一瞬ドキっとしてしまった。 
「来年ね、高校を卒業したらフィンランドに行こうと思ってるの。フィンランドの工芸品にククサというのがあって、その技術を学びたいの」 
 いきなり訳のわからないことを言い出した。
「ククサ?」 
 ポカンとしていると、
「何年か前にさ、おじいちゃんとデパートに行った時に催し会場でフィンランドのラップランド地方の工芸展をやってて、その時にククサを初めて見たの。柔らかいフォルムで一目で好きになっちゃった」
 棚から1冊の本を取って開いて見せた。木で作られた食器の美しい写真が載っていた。 
「素材は白樺の木なんだけど、こぶや根っこをくりぬいて作られているから硬くて丈夫なの。しかも天然木だから世界に同じ模様が一つとしてないのよ。これをもらった人は幸せになれるって言い伝えがあるの」 
 お気に入りのコップを指差しながら、彼女の声は弾んでいた。 
「ククサはね、自分で自分用に作ってもダメだし、自分で買ってもダメなの。人からプレゼントされたものでないと幸せが逃げちゃうんだって。私さぁ、おじいちゃんに買ってあげたかったけど、あの時は横にいたから恥ずかしくて買えなかったの。今度催しがあれば買いに行こうと思ってたんだけど、そのうち忘れちゃってね。でも催し会場でなくても食器売り場に行けば買えたのに、おじいちゃん、あんなに早く死んじゃうなんて思いも寄らなかったから」 
 声のトーンが低くなり目の淵が赤くなった。 
「ククサを作りたくてフィンランドに行くの?」 
 不思議そうに言うと 、
「そう、おじいちゃんに作ってあげるの」 
 顔がぱっと明るくなった。木の感触が好きな人はいっぱいいるだろう。それは木の器であったり木の家具であったり、もっと大きいものだと木の家であったり。だが外国に行って木のコップを作りたいという人の話は聞いたことがない。彼女にとっての祖父の存在はそれほど大切なものということだろうか。 
 しかし、僕はフィンランドのことは何も知らない。ムーミンやサンタクロースの故郷くらいの認識しかなく、フィンランド人に会ったこともなければ周りでフィンランドの話をしているのを聞いたこともなかった。
「誰か知った人がフィンランドにいるの?」 
 不思議ついでに聞いてみた。 
「いない。でも、ここにいてもどうせ一人だから」 
 さらりと言った彼女の言葉が胸を突いた。彼女にとっての「一人」とは「独り」を指すのだろうか。親元を離れて一人で国外生活している若者はいくらでもいる。でも彼らには帰る家があり、待っていてくれる家族がいる。自分を必要とする肉親がいないのなら、愛する人への思いをつなぐ場所に行きたいという選択は間違いじゃないのかも知れない。 

 それから彼女は「ふうっ」と一度大きく息を吐き、サイドボードから1枚の紙切れを出して僕の前に置いた。
「あなたの友達を撥ねた車のプレートの数字です」
 思いも寄らぬ言葉にびっくりして、動きが止まってしまった。
「友達を撥ねた車」
 確かに彼女はそう言った。 やはり目撃していたのか。心臓がバクバクし、全身が熱くなった。 
「車の色は?」 
「白」 
「車種は?」 
「分からない、外車かも」
 しかし下段の4桁の数字のうち2つしか書かれていないのに気が付いた。 
「外車って どんな?」 
「丸味を帯びてた」 
「そのことを警察に行って説明してくれないか。僕も一緒に行くから」 
 興奮して身体が前めりになった。すると彼女は怒った顔になり、
「私が出来るのはナンバーを教えることだけです。警察には行きません。どうしてもと言うのなら全ての数字は教えられません」 
 手を伸ばして紙を取ろうとした。 
「あ、いや、わかった」 
 慌てて彼女を制した。今はナンバーが分かるだけでも十分だ。 
「後の数字を教えるにあたってお願いがあります。今後一切私に干渉しない、警察には私の名前は絶対に言わない。このことを約束してください」 
 彼女の顔が険しくなった。 
「でも警察に聞かれたら、言わないわけにはいかないと思うんだけど・・・」 
 紙を見ながら口をモゴモゴさせると、
「約束してもらえないのなら、ここで終わりにします」 
 17歳とは思えない目力で牽制してきた。
「わ、分かりました、約束します」
 真っすぐ彼女を見て答えた。頷いた彼女は紙切れを引き寄せ、数字の続きを書き込んだ。
「約束ですからね」
 もう一度念を押し、僕の前に紙を滑らせると、
「では、これきりということで」 
 紙をポケットに押し込むのを見て、彼女は立ちあがった。

 家を出てその足で警察に行き、見知らぬ方からの情報提供ですと伝えた。当然どんな人物か聞かれたが、何度聞かれても「会ったことのない女性」で言い通した。 
 警察の動きは早かった。全ての事実関係を確認して証拠等を固めた上で、数日後に容疑者への逮捕状が発令された。警察発表によると、当日運転していたのは有名企業の会社役員の息子で、車には不倫関係の女性が同乗しており、人を撥ねたことに自覚はあったが不倫がばれるのが怖くてそのまま逃げたと供述した。 

 徹の母親に犯人逮捕を伝えると悲鳴に似た声を発し、しばらく言葉を失っていたが 、
「有難う、葛西くん本当に有難う」 
 安堵の涙を流しながら僕の手を握りしめた。母親の思いを受け止めながら、僕もやっと重い荷物を下ろせた気がした。あとは徹が目を覚ましてくれるのを待つだけだ。情報を提供してくれた麻衣にも一刻も早くこのことを報告したくて、夜遅くではあったが彼女の家に向かった。 
 チャイムを鳴らし、通用口から出てきた彼女に、
「犯人が捕まりました。有難うございました」 
 90度に頭を下げて礼を言った。
「そうですか」
 しかし彼女は迷惑そうな顔で、さらに逮捕に至った経過を説明し始めると、
「では、これで」 
 途中で言葉を遮り、戸を閉めてしまった。何だよその態度。やっとの思いで犯人が逮捕されたというのに、「良かったね」の一言もないのか。この間はあんなにククサのことを嬉しそうに喋っていたじゃないか。自分のことは話せても人の話は聞く耳を持たないというのか。異様に明るかったり、気分で暗かったり、情緒不安定を超えて彼女は躁うつ病ではないかと思った。

 ぶつぶつ言いながら駅に着いたら終電が出た後で、仕方なく駅前からタクシーに乗った。座席にもたれて外の灯りを見ているうちに徐々に興奮が治まり、さっきの彼女の言動を思い返してはっと我に返った。

 あの日、彼女はナンバーを教える条件として今後一切自分に関わらないで欲しいと言った。紙切れをポケットにしまった瞬間に約束は成立していたのに、僕の方が約束破りをしていた。

 一連の流れで言えば、元から彼女に僕への義理はなく、あるとしたらバッグのひったくりを阻止したことぐらいで、徹のひき逃げ事件に関係のない彼女が協力を強いられる義務もない。それでも彼女がナンバーを教えてくれたのは、自分の周りをウロチョロする僕から解放されたいという単純な願いからだったのだと思う。
 約束を守らなかったのは僕。沸騰状態で夜遅くに押しかけ、相手との温度差も考えずにこっちの都合を押し付け、しかもそれを正当化しようなんて。傲慢で態度が悪いのは僕の方だったのだ。



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