社会人
 

 
 大学卒業後、唯一採用された不動産会社の出勤日が来た。支店は幾つかあるものの新人を集めての入社式という行事もなく、配属先の支店内の研修はたったの3時間で、机上の教えより先ずは物件の把握ということで、午後からは戸外での講習になった 。
 主任の運転する車に僕ともう1人の新人が乗りこみ、自社の持ち物件を見て回った。客を案内する時はプラス面を強調し、不利になるようなこと余計なことは言わないようにと念を押された。 

 その日、最後に連れて行かれた物件の斜め前の家を見て驚いた。最初に彼女を尾行していた時に見失った大きな門の家だった。もっと驚いたのは横の通用門から彼女が出てきたことだ。 この家に何か用事でもあったのだろうか。気になって退社後に行ってみることにした。
「山城」と彫られた御影石の表札がかかっていて、垣根の隙間から覗いてみると一部屋だけ灯りがついていた。しばらく家の前を行ったり来たりして様子を窺っていると後ろから肩を叩かれた。 
「この家に何か用ですか?」 
 制服姿の警官と後ろにもう1人、女性の警官が立っていた。
「あ、いえ、あの、私、不動産会社の者で、あそこの斜め前の家を売りに出していまして。あの、この近辺の様子をですね、把握しておこうと思いまして、決して怪しい者じゃありません」 
 しどろもどろで答えた。 
「そうですか、ちょっと社員証を見せてもらえますか?」 
 警官が手帳を開いた。 
「あ、あの、まだ入ったばかりで社員証は貰ってないんです」 
 嘘はついていない。本当に貰っていなかった。
「では運転免許証を見せてもらえますか?」
 警官の目が少し険しくなった。 
「免許証?」 
 免許は2年前に取得していたが、友達の車を借りて家を出ようとした時にアクセルとブレーキの踏み違いで塀を壊してからペーパードライバーになっていた。 
「今日は家に置いてて、持ってないんです」 
 言い訳をしながら汗が出てきた。
「では何か身分を証明できるものはありますか?」 
 言い方は丁寧であったが明らかに不審者に対する尋問だった。身分を証明するものって他には何だ。鞄を開けてそれらしきものがないか探してみたが、研修ノートと筆記用具、会社概要本の他には何も出てこなかった。 
「では、とりあえず署までご同行願えますか、見慣れない人物がこの辺りをうろついていると通報がありましたので」 
 警官に促され、少し先に止まっているパトカーまで歩いた。警察署に着いて会社に連絡すると、びっくりした上司が駆けつけてきた。
 僕が新入社員であること、斜め向かいの家が自社の持ち物件であることを説明し、始末書のような書類にサインした上で数時間後にようやく解放された。そのまま上司の運転でアパートまで送って貰ったが、 
「人の家の前をうろうろするんじゃない。免許証は肌身離さず持っていろ」 
 こっぴどく叱られた。