2月初旬、新聞の隅にコンビニ事件の被害男性死亡の記事が載った。病院に搬送された時は救命士の適切な処置によって命を取り留めたが、意識を取り戻してから錯乱状態が続き、犯人についての聞き取りが出来ないまま、突然病院の屋上から飛び降りたという。
頭の中に麻衣の白いショルダーバッグが浮かんだ。彼女は被害男性の死亡のことを知っているだろうか。数日迷ったが、思い切って家に行ってみた。
門前払いだろうなと思いながらチャイムを押すと、待つまでもなくドアが開いた。
「どうぞ」
僕が来るのが分かっていたかのような対応でちょっと拍子抜けしてしまった。
「今後あなたに近づかないと約束したのに申し訳ありません」
応接室に入るなり頭を下げたが、彼女は軽く頷いただけで特に不快な表情を示さなかった。それを免罪符にしたわけではないが、
「あの、失礼を承知で言いますが、実は事件のあったコンビニの個人カメラにあなたのバッグが写っていまして、もしかしたらあの時間あなたはあの店に居たのではないかと」
ストレートにぶつけてみた。すると彼女は間を入れずに、
「私は犯人ではありません」
事件への関与を否定してきた。僕が尋ねてきた理由が分かっていての発言なら話は早い。次の僕の言葉を待たずして、彼女は静かに話し出した。
「あの日の夜、2時過ぎに私は確かにあのコンビニにいました。でも財布は持って行きませんでした。これがあるからです」
左手の袖をまくって、例の古ぼけた腕時計を見せた。
「これは曾祖父から祖父に、祖父から私に継がれたものです。この時計は15分間、時間を止められます。といっても、すぐには信じられないと思いますが」
顔色を変えずに淡々と話す彼女に驚いた。が、「やはり」とも思った。いつの時代かというような古いデザインの時計。アンティーク好きでもない限り若い女の子が持つような時計ではなかった。
「曾祖父が持ってる時は一時間、時を止められたようです。でも祖父が受け継いだ時は半分の30分になっていて、私が受け継いだ時はその半分の15分になっていました」
彼女ははめていた腕時計をテーブルの上に置くと、数字面を僕の方に向け、
「この横のポッチリを押すと自分の半径100m、15分間だけ時間が止まります。その間のことは誰も何も覚えていません。あの日、和食屋さんであなたが見たことは事実です。私は丼を食べて無銭飲食をしました」
人指し指でリューズを示しながら、首を傾げる僕の前でポチッと押して見せた。
「あ、」
声を上げる僕には反応せず、メモ帳に花の絵と今の時間を書き込み、僕にサインを促した。
「あなたは普通の人と少し違います。15分間のうち断片的に状況を覚えているようだから」
テーブルに置いた時計を手に取ると、再度リューズを押した。
瞬間、あの日と同じように目の前に閃光が走り、あまりの眩しさで目を瞑ってしまった。再び目を開けた時、彼女は窓の外にいた。驚いている僕をしり目に部屋に戻ってくると、
「私が何故窓の外にいたのかという理由ですが、最初にリューズを押した地点から15分間以内であれば時間が止めることが出来るからです。2度目にリューズを押してから再び時間が動く前に10秒の猶予があり、閃光はあなたのように私の行動が見える人にだけ光ります。私の行動を誤魔化すための10秒調整です。10秒あればその場所から離れられますから。だからあなたがあの店で目を瞑っていたのは10秒間で、瞬間ではありません。さっき私が、最初にリューズを押した後のことをどれくらい覚えてますか?」
彼女の言葉に目を閉じて考えた。当然ながら最初にリューズを押した時のことは覚えている。彼女が花の絵を描いたことも覚えていた。しかし絵の横に書かれた時間と自分がサインしたことは覚えていなかった。無理に思い出そうとすると頭が痛くなる。
「コンビニで事件があったあの夜、午前2時きっかりにリューズを押しました。この地点で時間が止まっています。パンとお菓子を持って飲み物の棚に行こうとしたら、男性が2人言い争いをしているのが見えました。少しして1人が店を出て行ったので、見ると床にもう1人の男性が倒れていました。血が流れているのも見えました。でも凄く怖かったし、15分が過ぎるとリューズを押さなくても自動的に元に戻るので、12分経った時にリューズを押して店を出ました」
犯行時の様子を語る彼女の顔は流石に引きつっていた。
「犯人の顔は見なかったの?」
当然のことを聞いた。
「よくは見なかった。でもあれは多分商店街の外れの…」
「商店街の外れ?」
聞き返した僕に、彼女は「いけない」という顔をした。慌てて冷めたコーヒーを飲み、下を向いて黙ってしまったが、焦らずに次の言葉を待っていると、
「あの、すみません、今のことは忘れてください」
1分待って、その言葉が返ってきた。
「警察には時計のことは言えません。おじいちゃんが死んでから何回もこの時計を使って、いけない事をしているので。余計なことを言って警察に追求されたら隠し切れなくなります。やっぱり罪を犯してる訳だから」
足元に目線を落とす彼女の身体がいつもより小さく見えた。しばらく俯いていたが、ゆっくり立ち上がると、
「おじいちゃんから、本当にお金に困って食べ物も買えなくなった時にだけ使うんだよって、この時計と一緒にノートを渡されました」
サイドボードからノートを取り出し、中を開いて見せた。ノートには日常の必要なことに加え、時計を使う時の注意事項が書かれていた。
1)食べるもの以外に使ってはならない。
2)雇い人のいない個人商店で使ってはならない。
3)1日1回のみ、一度に3品目以上使ってはならない。
4)使用時間は午後の3時から翌日の午前3時までの間に限る。
5)自分以外の者が使うとその地点で効力がなくなる。
ここに書かれていることが本当かどうかは分からないが、怖いのでこの項目は守り続けていると言った。
「おじいちゃん自身はこの時計は一度も使ったことはなくて、これを使うのは最後の最後の手段だからねって念を押されたの。おじいちゃんは多くのお金を残してくれたし、いざとなったらこの家を処分すればいいし、今すぐにお金に困ることはなかったんだけど、でも私、フィンランドに行く渡航費や滞在費のために少しでもお金を減らせたくなかったの。だから約束を破って使ってた。最初はビクビクしながら、でもだんだん大胆になって。だからあの日、あなたに無銭飲食を指摘された時は心臓が止まりそうなくらいびっくりした。もう使えないと思った」
ああ、思い出した。初めて会った時の彼女は堂々としていて自信たっぷりだった。何という生意気な小娘だと思った。その彼女が 内心は心臓が止まりそうなくらいびくびくしていたなんて。 それが本当なら公園の防犯ビデオでその時の様子を見てみたいものだと思った。
しかし今、僕の目の前にいる彼女は迷子の子羊のように、か弱く見えた。車のひき逃げとコンビニの傷害事件。間を置かずに自分の目の前で起こった2つの衝撃的な事件に、平静を装う余裕がなくなっているのだろうか。
「あの、余計なことだけど、神社で一緒にいた男性はもしかしてお父さん?」
重い空気を変えたくて、ちょっと話をずらした。
「えっ?」
予期せぬ質問だったのか、一瞬目を見開いた。
「あ、いや、お向いのおばさんがね、ちらっとお父さんのことを言ってたもんで」
慌てて言葉を付け足すと、
「ああ」
と頷いて、
「お父さん、私を引き取りたいと言ってきたの。子供の時なら付いて行ったけど、今更お父さんの相手の人をお母さんとは呼べないしね」
コーヒーをかき混ぜながら中途半端な薄笑いを浮かべた。 そして、
「相手の女の人とはおじいちゃんが死んでから一度会ったことがあるの。やさしそうな人だった。自分は子供を産めない身体だから安心して来てって言われたの。ほら、自分に子供が出来たら相手の連れ子に冷たくしたりするでしょ、だからその心配がないからって。でも一緒に暮らすのは無理。私、人にやさしくされても自分はやさしく出来ないの。人の親切がうっとおしいというか、協調性に欠けているのよ。わがままで自分勝手な性格だからね」
今度は自虐的に笑った。
「でも広い家に一人で寂しくはないの?」
初めてこの家で話をした日に、『おじいちゃんが死んでから一日が48時間に思えるほど長い』と言っていたから今はどうなのかと思った。
「もう慣れた。今は全然寂しくない。他人に変に気を遣われたり気の毒に思われたりする方が嫌。大勢で遊んでいる人を羨ましいとも思わない。群れなんて結局上下関係の成り立ちでしょ。てっぺんにいる者が自由でいい思いをして、気の弱い者は都合よく使われる。親友だと公言してる子だって、ある日を境に口も利かなくなったり反対に攻撃に回ったりする。似非親友なら最初からいない方がマシ。誰かとつるんでないと落ち着かないなんて馬鹿じゃないかと思う。私にとって人との付き合いは面倒でしかないの。誰にも何もしてもらわなくていい、可愛気のない女の子だと思われても構わない。むしろその方が自由に動けて楽だもの」
なるほどの答えだった。こういう場合の返し方ってどうなのだろう。
「でも一生一人というわけにはいかないと思うんだけど」
一般論を言ってみた。彼女は鼻で笑った。
「一生一人のどこが悪いの? 誰かと関わるから喧嘩になるんじゃない。誰とも関わらなければいがみ合うこともないし、憎むことも恨むこともないわけで、こんな楽なことはないでしょ? 生き物なんてどうせ死ぬ時は一人だし、涙流して看取って貰っても天国にまで一緒に行ってくれるわけじゃない。私が心から信頼出来たのはおじいちゃんだけ。でもおじいちゃんはもういない。だから一生一人でいい。一人が楽で気持ちいい」
流石にこれは重症だと思った。強がりの極致だと思った。17歳の女の子が熱弁する言葉にしてはあまりにも寂し過ぎる。それだけ彼女に降りかかった現実が厳しかったということなのか。
「でも大人になったら自分に合った結婚相手が現れるかもしれないよ。ハンサムでお金持ちで君だけを愛してくれる人。たとえば君のおじいちゃんのような人」
場を和らげるつもりで言ったが、彼女はやはり鼻で笑った。
「君だけを愛してくれる? なにそれ、宣教師みたい。この世に普遍的な愛なんてないのよ。私の親がそう。日本人の2分に一組の夫婦が離婚していて、その原因の殆んどが夫の不貞行為なのよ。浮気をする男は最低だし、働かない男はもっと最低。合コンで王様ゲームなんてやってる男とは口も利きたくない。世の中最低の男ばっかり。おじいちゃん以外の男は誰も信じられない」
顎を上げて語る彼女の言葉に、驚きを通り越して悲哀を感じてしまった。
こういう言動の人間を「ふるっている」と妙な褒め方をする人がいるが、それは褒めているのではなく「呆れている」の裏返しだ。「ふるっている」と言われる人間は他からの侵入を拒み、素の自分をさらさず、陽の恵みも月の明かりも求めない。一人でいることで母体にいるようなやすらぎと安心感を覚えているのだろう。
それまで興奮気味にしゃべっていた彼女が「あ」と口に手をあて、急に黙ってしまった。気分でも悪くなったのかと思っていると、
「あなたがここに来た理由ですが、あなたは私をどうしたいのですか?」
彼女らしいというか、仏頂面で攻撃的な物言いになった。さらに、
「あなたが警察にこの時計のことや私のしたことを言いに行くのは勝手です。私に止める権利はありません。でも私がコンビニの防犯カメラに写っていない以上、私はあの店には行っていないと主張します。道なりの防犯カメラでは私が店に入ったという証拠にはならないし、被害者とも加害者とも一切の繋がりがありません。第一、時間が止まる時計なんて誰が信用します? あなたは単なる事件好きの推理マニアであしらわれるだけだと思います」
しれっとした顔で、全く言う必要のない言葉を並べ立てた。自分をさらけ出し過ぎたと思ったのだろうか。大人の事情で傷ついた自分を可哀想だと思われるのが嫌だったのか。ほんの数分で、彼女はいつもの無愛想な女性に戻っていた
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