少女
 

 

 唖然としてしまった。早食いの練習でもしているのかと思った。時間にしてほんの2、3分、瞬く間に丼を平らげた少女はコップ一杯の水をも一瞬で飲み切った。 
 何だこの速さは胃に悪いぞ。 感心を通り越して身体の心配をしてしまった。 空になったコップをテーブルに置いた少女は次に左手の腕時計を顔の前に持って行った。 
「何だそうか、時間がなくて急いでいたのか」
 納得して少女から目を離した瞬間、辺りに強烈な閃光が走った。思わず目を瞑り、再び目を開けた時は少女は店の外にいた。ガラス窓の向こうの横断歩道を悠然と渡っている。2人いる店員はと見ると1人は厨房の中に、1人は入り口に背を向けてテーブルの上を片付けていた。 
「おいおい店員さん、食い逃げされてるぞ」 
 言いかけて口をつぐんだ。確信がなかった。横断歩道を渡ったすぐ前に公園の入り口があり、彼女はその中に消えて行った。納得が行かないというか腑に落ちないというか、食べ始めたばかりのカツ丼をそのままにして、急いで公園に向った。

 外周だけで2.8kmある大きな公園で、見つけるのは無理かも知れないなと思っていたが、意外にも入り口から真っ直ぐ100m程先のベンチに彼女は座っていた。ぼーっとした顔で空を見上げている。速足で近付いて徐に声を掛けた。 
「すみません」 
 彼女がゆっくりと顔を回した。 
「今、あそこの店で丼を食べていましたよね」 
 ぶしつけな男の質問に、
「いいえ」 
 彼女はそっけなく答えた。 
「あの~、あなたが食べているところを見ているんですけど」 
 遠慮気味に言ったら 、
「何を言いたいんですか」 
 不快そうに睨み返された。 
「あなた、お金、払っていませんよね?」 
「あなたはお店の方ですか?」 
 質問には答えず、逆に聞いてきた。 
「違います、あなたの斜め後ろに座っていたものです」 
「お店の方に頼まれたんですか?」 
「いえ、頼まれたわけではありません。でもおかしいんです。あなたが丼を食べ終わってすぐに物凄い光がしました。思わず目を瞑ってもう一度目を開けた時、あなたは店の外にいました。たった数秒で、まるで瞬間移動したかのようにあなたはあの店から消えたんです」 
 身振り手振りで話す僕に、しかし彼女は表情を変えなかった。 
「あなたの言っている意味が分かりません。悪いけど私はその店には行ってないし丼も食べていません。誰かと間違えているんじゃないですか?」 
 馬鹿馬鹿しいという風に鼻で笑った。 
「いいえ、あなたは食べていました、この目ではっきり見ました」 
 少女の白く端整な顔を見ながら僕は自分が興奮して来ているのが分かった。口は乾いているのに手が汗ばんでいる。 
「そうですか、それで私にどうしろと?」
「お金を払いに行って下さい、食い逃げはいけません」 
 なおも気負い立つ僕に、
「じゃあ実際に食い逃げに遭ったかかどうか、そのお店に戻って確かめて来て下さい。私はここで待っています。逃げも隠れもしません。どうぞご自由に」 
 手で店の方向を示し、唇の端を上げた。あまりにも毅然とした態度にどうしようかと迷ったが、このまま引き下がるのは癪だと思い、頼まれもしない用件を抱えて200m先の店に駆け込んだ。 
 しかし驚いたことに二人いる店員のどちらもが彼女のことを覚えていなかった。彼女が店に入って来たことも、彼女から注文を受けたことも、彼女のテーブルに丼を運んだこともすべて記憶にないと言う。食い逃げなどされていないと反対に迷惑そうな顔をされた。 

「だから違うって言いましたよね」 
 戻ってきた僕に彼女は言い放った。
「用がないなら行ってもらえますか、気分が悪いので」 
 バッグから一冊の文庫本を取り出し、スピンを持って読みかけのページを開いた。 
「あのう」 
 それでも立ち去らずにいる僕に、
「まだ何か」 
 無表情だった彼女の顔がきつくなった。 
「あのう、すみませんがちょっと腕時計を見せて貰えませんか?」 
 シャツの袖から半分出ている彼女の腕時計に目をやった。女性が持つにしては大きくて地味そうな時計。皮のベルトは色あせて端の部分が擦り切れていた。 
 すると、今まで冷静だった彼女の顔色が変わり 、
「お断りします」
 本を閉じてベンチから立ち上がった。それから傍らの白いショルダーバッグを肩に掛けると、足早に公園を出て行ってしまった。