事故
 
 卒論の締切日が迫っているのに思うように捗らず、親友の川島徹にぼやくと、
「代行に頼んだら?」 
 と言われた。大まかに書きたいことを説明するとプロのライターがそれらしく書いてくれるという。 
「ただし、ぼったくられるぞ!」 
 言葉の最後に感嘆符が付いて来た。そんな余分なお金はないので1DKのアパートに籠り、集中力をつけるために携帯をOFFにして外からの情報をすべて絶ち切った。

 やっとのことで書き終え3日後に携帯を開けると、何件かの着信に混じって徹からの電話が4回入っていた。かけ直してみたが何回かけても繋がらない。留守電を入れてもメールを送っても返事がなかった。徹にはしばらく電話に出ないとを言ってあったので、それを承知で掛けてきたということは何か急を要することが起きたとしか思えない。胸騒ぎがして彼の家まで行ってみた。 

 徹の父親は彼が10歳の時に亡くなっていて、母親が一人で徹と3歳下の妹を育てていた。夫が経営していたラーメン店の後を継いで、当時お客さんだった女性にパートに来てもらい、家事は徹と妹で分担し合って生きてきた。
 徹とは大学の入学式の時に隣に座ったのがきっかけで、とにかく気が合い、親友関係になるのに時間がかからなかった。上京時に僕が借りたアパートから徹の家まで歩いて7~8分という近さもあって、徹がいてもいなくても金欠になると彼の店に行き、腹いっぱいラーメンを食べさせてもらっていた。 
 店の前まで行くとシャッターが下りていて「臨時休業」の張り紙がしてあった。店の2階が住まいになっていて、チャイムを押しても返答がない。隣の洋品店に入って聞いてみた。 
「ああ川島さんね、徹ちゃんが事故に遭ってさ、救急車で病院に運び込まれたんだよ」 
 奥から出てきたご主人が教えてくれた。信号無視の車に撥ねられ意識不明の重体だという。 
「2日前の夕方なんだけどね、しかもひき逃げだよ。奥さんがずっと病院に通い詰めてるんだけど目撃者もいなくて困ってるって話だよ」 
 ご主人は気の毒そうに話してくれた。あの電話は本人からではなく母親からだったのか。病院を教えてもらい、走ってきたタクシーに飛び乗った。
 携帯の記録を見ると昨日が3回、今日の朝に1回入っていた。 一体自分は何の為に携帯を持っているんだ。何が集中力だ、いっぱしの芸術家気取りで外部と遮断なんて。後悔で胸が痛んだ。 

 病院の受付で徹の名前を言うとICUにいると教えられた。病室の近くまで行くと、母親と妹の真紀ちゃんが僕を見つけ椅子から立ち上がった。 
「すみません、電話を貰っていたのに気がつかなくて」 
 急いで駆け寄ると、母親が僕の手を掴んで来た。 
「葛西くん、助けて」 
 ずっと二人きりで心細かったのだろう、母親の顔には色がなく目も窪んでいた。  
「意識が戻らないのよ、死んじゃうかも知れない」 
 かすれた母親の言葉に真紀ちゃんが泣き出した。 
「大丈夫だって、徹はそんな柔な人間じゃないから。気をしっかり持って」 
 言いながら僕もどうしていいのか分からなかった。徹が事故に遭った日は急病のパートさんの代わりに徹が店に出ていて、出前の途中で信号無視の車に撥ねられたという。その直後に小雨から豪雨に変わり、証拠になるような物が流され交通量が多い時間帯にもかかわらず目撃者もなく、2日経った今も犯人逮捕に至っていないという。 
「大分前から出前は断ってたんだけど徹がそれを知らなくてね。受けちゃったからって出て行ったのよ。こんなことになるなら行かせなきゃ良かった」 
 母親が呻いた。何か言わなくてはと思うのに気の利いた言葉が浮かばない。母親の手を握り返すのが精一杯だった。ICUの隣に仮眠できる部屋があり、この2日間殆んど寝ていない二人を休ませ、後は僕が見守ることにした。
 一般患者が通らない静かな廊下にいると不安な気持ちがどんどん大きくなって行く。遅い速度で動く時計の針を見つめながら、それでも時間は確実に過ぎて行った。

 夕方近く、長椅子でうとうとしているうちに眠ってしまったらしく、サンダルの足音で目を覚ました。医師と看護師がICUに入って行くところだった。ドアが閉まる途中に中を覗くと薄い壁で仕切られたブースが幾つか並んでいて、静かな空間にプシュップシュッという医療機器の作動音が聞こえてきた。ベッドの裾部分が見えたが、あの中のどれかのブースに徹がいるのかと思うと胸が締め付けられた。
 暫くして先ほどの医師が出てきた。徹の容体を聞いてみると、
「厳しい状況ですね、頭部の損傷が激しいので当分は様子を見ることになります」
 医師の表情は硬かった。 
「まさか植物人間になるなんてことはないですよね」 
 焦って大きな声を出すと、
「今のところは何とも言えません。意識が戻っても脳の機能が正常に戻るには時間を要すると思われますので、とにかく今は体の回復を待つということです」 
 不安な言葉を残して医師は去って行った。その後も別の看護師が何回となく出入りしていたが、徹の状態についての説明は何もなかった。 

 深夜、急患が運び込まれ、静かだった院内が騒がしくなった。患者の乗ったストレッチャーの後から家族がすり足で付いて来ている。母親と中学生くらいの男の子と小学生らしい女の子。手術室のドアが閉まった途端、女の子が顔を歪めて泣き出した。母親が女の子を抱きしめ、少年を促して長椅子に座った。手術中のランプを見つめる母親の姿が痛々しく、徹の母親もこんな感じであの場所に座っていたのかと思うと、手術の成功を祈るしかなかった。 
 それから1時間程が経過し、やがて手術中のランプが消えた。3人が扉を見つめ、数分後に出てきた医師に母親が駆け寄った。状況を説明した医師が一礼し、母親は去って行く医師の姿を追うことなく2人の子供を抱いて泣き崩れた。厳しい現実を目の当たりにし、いたたまれなくなって僕はその場を離れた。