新年  
   一月一日、午前十時、二人は住吉大社にいた。人の波に押されながら正月用の巨大な賽銭箱に向かって賽銭を投げた。
「何お願いしたの?」
 顔を覗き込む和音に、
「店が上手く行きますように」
 康祐が真面目な顔で答えた。
「和音さんは?」
「言わない」
「なんだよ、いいなよ」
「人に言うと願いが叶えられないって言うじゃん」
「えっ、本当?」
「な、わけないじゃん、でも言わない」
「人には聞いたくせに」
「だから君はおぼっちゃまなのよ。人の言うことを簡単に信じちゃ駄目なんだって」
 へらへら笑いながら和音が先に歩き出した。再び人の流れに沿って太鼓橋に乗っかる。
「見た目以上に急な橋だね」
 丸い勾配の橋が雨上がりで滑りそうだった。警官に誘導され、人が前へ前へと押し出される。 境内のあちこちに露店がひしめいていた。東京に多いクレープ屋がここには殆んどない。といって大阪名物と称されるたこ焼き屋も思っていた程多くはなかった。
「綿菓子でも食べる?」
 綿菓子の袋を持った親子連れが二人の前を歩いていた。
「綿菓子ねえ、それより」
 ぐるっと屋台を見渡した和音が、
「あれにする」
 いか焼き、と書かれたテントを指差した。渡されたいか焼きは、いかを丸ごと焼いたものではなく、味付けした小麦粉に小さく切ったいかをお好み焼きのように焼いたものだった。
「あ、美味しいよ」
 一口食べた和音が目を大きくした。
「ほんとだ、うまいな」
「外で食べるのって、なんか楽しいね」
「そういえばさ、子どもの頃にデパートの屋上で食べたソフトクリームは旨かったな」
「子どもの時にデパートなんて一度も行ったことないよ」
 和音が不満そうに言うと、
「親と一緒だから面白くも何ともないんだって。ソフトクリームが目当てで付いて行ってただけなんだから」
 康祐が慌てて機嫌を取った。
「ソフトクリーム好き?」
「好き」
「じゃあ、暖かくなったら食べよう」
「暖かくならなくても店で食べられるよ」
「いやいや、青い空の下で食べると美味しさが倍になるんだ」
「何言ってんの、どこで食べてもソフトはソフトだよ。夏でも冬でも美味しいものは美味しいんだから」
 むきになる和音に、これ以上は分が悪いとみた康祐が、
「今から大阪城に行こう」
 無理やり話を変えた。
「大阪城ってなに?ソフトクリームは何処へ行ったの?」
「そのうち連れて行くからさ」
「何なのよ、頭おかしいんじゃないの」
「時は流れてんだよ。次だよ、次」
 昼前だった。大社を出てすぐ前のタクシー乗り場まで歩いた。動き出したタクシーの中で和音が聞いて来た。
「康祐さん、いくらお給料貰ってるの?」
「えっ?」
「だっていつも移動はタクシーでしょ、電車を使えばいいのに」
「そうなんだけどさ、方向がよく分からないからウロウロしてると時間食っちゃうと思って」
「もったいないよ、ここは日本なんだから分からなければ聞けばいいでしょ」
「そうだな、次からそうするよ」
 素直に同意した康祐に、和音は満足そうに頷いた。正月の道路は空いていた。大阪城公園前でタクシーを降り、公園内をゆっくり歩いた。城の入口まで来て、年末年始は天守閣に登れないことが分かった。
「お城だって正月は休みたいってね」
 和音が城を見上げて笑った。大阪城の外壕添いをぐるっと一周してから、大阪城ホールの横に出てきた。夕方にコンサートがあるらしく、あちこちから人が集まって来ている。駅方向に歩いていると、前方から音楽が聞こえて来た。近寄ってみると適当な間隔でいくつかのグループが路上ライブをやっている。比較的静かな音を出しているグループの前で足を止めた。
「高校生かな?」
「うん、若いな」
 しばらく聴いていると、少し離れた人だかりから歓声と拍手が沸き上がった。口笛と手拍子も加わり、えらく盛り上がっている。
「何だろう」
 顔を動かして覗いて見るが、人垣が厚くて中がよく見えない。
「行ってみない?」
 興味津々の和音に、
「僕はいいよ、ここにいるから見て来たら?」
 康祐は目の前のバンドが気に入っているようであった。
「じゃあちょっと見てくるね」
 小走りで駆けて行った和音が輪の中に潜り込み、見えなくなってから顔を戻すと、それまで10人程いた見物人が康祐を入れて3人になっていた。
 しかし、そんなことは彼らには慣れっこのようで、全く気にする様子もなく黙々と演奏を続けていた。 すると、
「菱木さん?」
 後ろから声を掛けられた。
「やっぱりそうだ、お久しぶりです」
 本社営業部の松浦京子であった。驚いて二、三歩、後に下がった。
「お元気でした?」
「ああ元気、君の方は?」
「もうすこぶる元気。今ね、友達とこっちに遊びに来ているんです」
 少し離れて立っている二人の友達に目をやった。
「菱木さんは誰と一緒なんですか?」
「ああ、知り合いの人とちょっと」
「女の人?まさか彼女?」
「いや、そんなのじゃなくて」
「別にいいですよ、わたし菱木さんにふられたこと気にしていませんから」
「いや、本当にそうじゃなくて、その」
 京子を前にうろたえた。
「じゃあ、友達が待ってるから行きます。本社に来られた時は顔を見せて下さいね」
 小走りで友達のところへ戻って行った。ほっと息を付く間もなく、
「見て来たよ~」
 和音が戻って来た。もう少しで鉢合わせするところだった。一月の寒さの中、手に汗が滲むのを感じた。
「ダンスやってた、ヘッドスピンとかいうやつ。でも最後の方だったからすぐに終わっちゃった」
 見ると人垣が崩れていた。
「そうか、残念だな」
 答える康祐の上ずった声に和音は気が付かない。
「もう薄暗くなってきた、クロちゃんが来るから早い目に帰ろうかな」
 クロちゃんか、そうだよな。不本意ではあったが文句は言いたくなかった。環状線から地下鉄に乗り換えて都合40分、和音の降りる駅に着いた。一緒に降りようとする康祐を制して、
「一人で帰るからいいよ」
 和音は改札口に駆けて行った。
 翌日、昼近くになって携帯の呼出し音で目が覚めた。
「二日目のおめでとう、和音でーす」
 いつにも増して元気な声。
「おはよう」
「おはようじゃないよ、もうお昼だよ」
「昨日明け方までビデオ見てたら眠りそこねちゃって。それより和音さん足痛くない?知らないうちにいっぱい歩いていたからさ」
「全然、もう気分爽快」
「アンドロイドだな」
「何言ってるのよ、いつまでも寝てると正月なんてあっという間に過ぎちゃうわよ」
「いいよ別に、正月っていってもただの休みだしさ」
「まあね、別に用ってないんだけど、クロちゃんが気になってお礼を言い忘れてたから。ほんと有難う。起こしてごめんね、じゃあまた」
 康祐が返事する間もなく電話は切れた。せっかちなやつ。携帯を畳んで大欠伸した。寝ているだけなのに時間が来ればお腹が空く。冷凍庫からピラフを取り出し電子レンジにかけた。待つこと4分、レンジからいい匂いがしてきた。
「うまい」
 一口食べて満悦。一日は短い。だらだらしている内に時間は過ぎて行く。食べ終わったピラフの皿を持って台所に立った。鼻歌まじりに皿を洗いながら、和音のことを考えている自分に気が付いた。少しの驚き。今まで味わったことのない不思議な感覚。自分の中で和音の存在が少しずつ膨らんで来ているのを感じていた。