いきなり後ろから襲われた。大学の友達と別れて一人になった矢先だった。白い車が横付けになり、あっという間に引きずり込まれた。
「騒ぐと殺すぞ!」
康祐の横に座った男は拳銃を脇に突きつけた。目隠しをされたまま4、50分走った頃、車は三軒続きの古びた長屋に到着した。
一番端以外は空き家になっていて「売り家」の看板が立てられていた。
家の中に入るとソファに座っている二人の女が目に飛び込んできた。20代後半の女と20歳そこそこの女。康祐を連れ込んだのは40過ぎの男と20代半ばの子分らしき男。携帯電話を取り上げられ、足かせと手錠をかけられた。
「夜になったら電話する、よく見張っておけ」
リーダー格の男は若い男に命令してから、二人並んでいる若い女の方に顎で合図した。男が先に二階に上がり、後から若い女が続いた。残された女は前を向いたまま動かない。
しばらくして途切れ途切れに女のあえぎ声が聞こえてきた。康祐はびっくりして残された女を見た。女は無表情であった。
「よくやるよ、間っ昼間からこんな狭い家でよう」
若い男は残された女を気遣うように言った。無表情の女は立ち上がると玄関の戸を開けて外に出て行った。
「全くもう何だってんだよ」
女を見送った若い男はぶつぶつ言いながらテレビの電源を入れ、ボリュームを大きくした。ワイドショーの時間帯で口達者なゲストが日本の貧困層の話をしている最中だった。しばらく聞き入っていたが急に立ち上がると、
「お前が言うな、デッカイ家に住みやがって何が我々庶民はだよ。お前に庶民の何が分かるってんだ、馬鹿にするな」
もっともらしい発言を繰り返すゲストに悪態をついた。チャンネルを変えて見るがどの局も似たり寄ったりの内容で、リモコンを投げ捨てると傍にあった週刊誌を読み始めた。
しばらくしてリーダー格の男が階段を下りて来た。シャワーを浴びに風呂場に向かう。男の後からだるそうに下りて来た女が冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、勢いよくラッパ飲みし始めた。ごくごく音を立てて飲んだ後、ふと自分を見ている康祐に気付いた。
「飲む?」
ボトルを康祐に向けて突き出してきた。康祐が不快そうに横を向くと女はフンと鼻を鳴らし、ボトルを元の位置に戻した。
風呂場から出て来た男は部屋を見渡し 、
「和音はどこへいった」
若い男に声をかけた。
「さっき出て行きましたけど」
顔を伏せたまま若い男が答える。
「ごそごそ出歩くなって言っておけ」
男は言い捨てると、肩に掛けたタオルで髪を拭きながら二階に戻って行った。夜になり、車で出て行った若い男が一時間程して戻ってきた。
「トキさん、弁当買って来ました」
二階に向かって声を上げると、下りてきた男は弁当とお茶のボトルを取り、再び二階に上がって行った。女は上には行かずソファに座って弁当を食べ始めた。
若い男は康祐の手錠を外して、
「食べな」
弁当を一つ床の上に置いた。弁当は温かかったが食べる気がしなかった。横に置いたまま逃げるチャンスを窺っていると、さっき出て行った女が戻って来た。若い女は知らん顔で食べている。
「あんまり出歩くなってトキさんが言ってたよ」
若い男が言ったが、女はそれには答えず床に座って弁当を食べ始めた。
しばらくして男が空の容器を持って下りて来た。若い男がさっと受け取る。女二人は動かない。二人が食べ終わるのを待って若い男は残飯をビニール袋に入れ、重ねられるものは重ねて嵩を低くし、別のビニール袋に小さく納めた。手際の良さに感心していると康祐に気付いた若い男が手錠を元通りにかけ直しに来た。
「ケン電話するぞ」
ケンと呼ばれた若い男は小さな籠から携帯電話を取り出して男に渡した。籠の中には中古の携帯電話が10数個入っていた。
「菱木さんだな、一度しか言わないからよく聞け、お宅の息子を預かっている。解放は金と引き換えだ。明日中に旧札で一億円用意しておけ」
電話に出たのは康祐の母親らしかった。驚いている様子が感じ取れる。
「受け渡しの方法はまた連絡する。警察に連絡すると息子の命はない。24時間あんたの家を見張ってるから変な動きをすると容赦はしない、分かったな」
用件だけ言うと電話を切り、ゴミ箱に投げ入れた。一度使った携帯は二度とは使わない。
「ケン、近くまで行って様子を探って来い」
男の言葉にケンは洋子と二人で康祐の家に向かった。夜を徹しての見張りで、二人はそのまま一晩中帰って来なかった。
朝になって男はケンからの電話を待ってうろうろしていた。七時過ぎになってようやく電話が入ると、
「もっと早く連絡しろって言ってるだろ」
大声で怒鳴った。 「怒るくらいなら自分から掛ければいいのに」康祐は思った。ケンの報告では朝の地点では警察には通報していないらしく、家を出入りする人物は見かけられないとのことであった。
「よし、家の方に電話して見るから、もう少しそこで見張っていろ」
電話の前で待機していたのか一回のコールで母親が出た。
「警察には通報していないだろうな」
「していません」
「金の目処は付いたか?」
「今、銀行に連絡している所です。時間を下さい」
答える母親の、しかし意外に落ち着いた態度に男がイラッとした。
「今日中に用意できなければ息子は返せない」
「旧札で一億円はすぐには用意出来ません。半分にしてもらえませんか」
「ダメだ、一億と言ったら一億だ!」
男が大声を出した。
「約束を守れば息子は無事に返してやる。生かすも殺すもあんた次第だ。引渡しは明日だからな、それまでに必ず金を揃えて置け。後でまた連絡する」
母親が言葉を続けているのを無視して男は電話を切った。携帯をゴミ箱に投げ捨てる。それからソファで雑誌を見ている女の横に座った。
「大金は目の前だぜ、わくわくするな」
にやけた顔で女の肩に手を回した。
「前祝いだ、ビールを買って来い」
男は財布から千円札を抜き出すと女の膝の上に置いた。
「冷蔵庫に入ってるでしょ」
女が面倒臭そうに答える。
「入ってないんだよ」
「じゃあ自分で行けば」
女は動かなかった。男はムッとした顔で札を掴むと、乱暴に戸を開けて出て行った。ソファにもたれタバコを吸いながらボーッとしていた女が、ふと康祐の方に顔を向けた。立ち上がってゆっくり近付いて来る。そのまま康祐の左横に並んでしゃがみ込むと、持っていた灰皿を足元に置いた。
「あんたん家、大金持ちなんだってね。父親が宝石会社の社長?凄いよね、正真正銘のおぼっちゃまなんだ。育ちのいい人間ってさ、なんか雰囲気が違うのよね。爽やかだしスマートだし、うちの二人とは比べ物にならないよ。さぞかし女の子に持てるんだろうね」
からかうように康祐の顔を覗き込むと、口をすぼめて煙を吐き出した。康祐は顔をしかめて横を向いた。女の肌は荒れているのか化粧の乗りが良くない。肩まで伸びた茶色の髪も艶がなかった。
「あたしなんかさ、めっちゃ貧乏人の子でさ、父親が借金残して蒸発しちゃったのよね。母親のパート代だけでは兄妹三人のお腹が膨れなくてさ、一日で口にする食べ物が学校の給食だけって日がしょっちゅうで、ホームレス顔負けの生活だったよ」
女は唇の端を上げ自嘲するように笑った。
「まぁね、あんたにこんなこと話しても仕方ないんだけどね、貧乏だったら金持ちを誘拐して金をふんだくっていいのかって話だもんね。幼稚園の子に聞いても悪いことだって言うよ」
ふふんと鼻を鳴らし、小さくなったタバコをもみ消した。そのまま立ち上がろうとして、ふと康祐の腕時計に目を留めた。
「あっ、いい時計してんじゃん、ちょっと見せて」
文字盤がよく見えるように顔を近付けてきた。しかし自分の知らないブランドだったらしく、
「これってどこの時計?あたしブランドものはよく分からないのよね。でもいいものだってことは分かる。高級なものってさ、ペラペラしてなくてどこか重厚感があるのよね。カッコいいね、いくら位するの?」
ガラスの上をなぞりながら、女は時計から指を離さなかった。康祐が体をねじって女の手を振り払うと、女はバランスを崩してその場に尻餅を付いてしまった。
「もおっ、何すんのさ、痛いじゃないの。あたしが取るとでも思ってんの。あんたの時計なんか取らないわよ!」
ヒステリックに声を上げると立ち上がって康祐を睨み付けた。仏頂面でソファに戻った女は康祐から背を向けると、それきり話しかけて来なくなった。
どこまで行ったのか30分経っても男は帰って来ない。
「トイレに行きたい」
康祐が言った。
「ダメ」
女は取り合わなかった。
「お腹が刺すように痛いんだ」
「ダメ、勝手なことをするとあいつに何されるか分からないから」
「頼むよ、痛くて我慢できないんだ」
「ダメったらダメ」
女は大声を出した。康祐は身体をくの字に折り曲げ、うめき声を上げてその場に転がった。女は「もうっ」という風に顔をしかめ、玄関の方に歩いた。
外に出て男の姿を探すが帰ってくる気配がない。戻ってきた女は苦しむ康祐をしばらく見ていたが、テーブルの上に無造作に置かれた鍵を掴むと、
「さっさとしてよ、見つかると大変なんだからね」
用心しながら足かせを外した。
「手錠は外せないからね、自分でどうにかして」
女の言葉が終わらないうちに走ってトイレに駆け込んだ。トイレに入ると同時に昨日から目をつけていた壊れかけの窓に手を掛け、体を持ち上げた。
「早くしてよね」
戸の外から急かす声がする。
「もうちょっと」
答えながら落ちるように窓をすり抜け、勢いよく外に飛び出た。方向など分からなかったが取りあえず走った。いや、走ろうとした。
と、いきなり横っ腹を蹴り上げられ、肩から地面に叩きつけられた。起き上がろうとした康祐の顔面になおも拳が飛んで来る。
「ふざけやがって!」
さっき出て行ったリーダーの男だった。何の抵抗も出来ず、引きずられるように康祐は家の中に連れ戻された。
玄関から入ってきた二人を見て女の顔が一瞬で蒼くなった。頬がひきつっている。元の場所に投げ出された康祐は足かせをつけられ、手錠を後ろ手にされた。
「お前は一体何をやってたんだ!」
男は女に近付くなり顔面を叩いた。
「見張りもちゃんと出来ないのか、馬鹿かお前は!」
一度叩いただけでは治まらず、髪の毛を掴んで引きずり倒し、なおも顔といわず頭といわず殴りつけた。口の中が切れ、血が唇を伝い、それでも男は乱暴を止めようとしなかった。興奮で顔が真っ赤になっている。
「やめろ!」康祐が叫んだ時に携帯の呼び出し音が鳴った。興奮していた男は我に返り、殴るのを止めた。
ケンからであった。家のほうで動きがあったらしい。
「スーツ姿の男二人が鞄を持って中に入って行きましたけど、1時間以上経っても出てきません」
「警察か」
「じゃないかと、銀行員なら金を置いたらすぐに帰ると思うんですけど」
「ふざけやがって」
「どうしましょうか」
男の表情が険しくなった。何回かのやりとりの後、洋子を残して一旦戻ってくるようにケンに言った。
「和音、二度とヘマするんじゃねえぞ」
うずくまっている女に言い残し、男は二階に上がって行った。
「すまない」
康祐は小声で謝った。女に悪い事をしたと思った。女に反応はない。康祐のショックは大きかった。抵抗出来ない女にあれほどの暴力を振るう男を見たのは初めてであった。
しばらくして外で車の止まる音がし、ケンが戻ってきた。
「和音さん、どうしたんだ一体」
ソファで横になっている女の顔を見てケンが驚いた。
「ちょっと待って、タオル持ってくるから」
風呂場から水の入った洗面器を持って来て、絞ったタオルを女の顔に乗せた。女は一瞬顔を歪めたが、
「気持ちいい」
小さく息を吐いて自分の手をタオルに持って行った。ケンが康祐を見た。康祐の顔にも殴られた跡があった。誰が殴ったか一目瞭然である。
「薬がどこかにあるはずだ」
立ち上がって戸棚の辺りに目をやると、
「余計なことをするな、ほっておけ」
いつの間にか男が階段の下に来ていた。
「でもトキさん、このままじゃあ」
「かまわん、こいつは人質を逃がそうとしたんだ、殴られて当然だ」
言い放つ男にケンは逆らえなかった。男は椅子に腰掛けながら菱木家の様子を聞いて来た。前もって周辺の下見をしているので大まかな地理は理解していた。
「トキさんが言ってたように、ここが一番見やすい位置で、俺達が見た限りでは玄関から家に入ったのは鞄を持った男二人だけで、玄関以外だと塀を乗り越えるしかないし、明るくなってからでは目立ち過ぎるから先ず無理で、それでも入っていたとしたら夜中しか考えられないです」
ケンは自分と洋子が見張っている場所を分かりやすく絵で書いて説明した。
「他に出入り口はないのか」
「勝手口がありますが玄関のすぐ横なので人が出入りすればすぐに分かります」
「中の様子はどうなんだ」
「何処で見張られているか分からないから、これ以上は近付けないんですよ」
「そうか、じゃぁ確かめて見るか」
男は携帯をプッシュし、電話に出た母親に大声を出した。
「警察に通報しただろ、男が二人中に入って行くのを見ているんだ。最初に言ったはずだ、約束を破ったら息子は生きて返せない。ただの脅しだと思っているんだったら大間違いだからな、分かっているのか」
しかし、母親は前日と同じく落ち着いていた。
「今、家にいるのは警察ではありません。会社の幹部が銀行からお金を用立てて持って来てくれたんです。警察には通報していません」
「本当だろうな?」
「本当です」
「いいだろう、その幹部にはさっさと引き取ってもらえ。息子の命はあんた次第だ。いいな、チャンスは一度きりだからな」
またも一方的に電話を切った。数分後、菱木家を見張っていた洋子から電話が入り、男二人が引き上げたと言う。
「他に誰かいる気配はないか?」
「入るのを見たのは二人だし、出て行ったのも二人だから多分それで全部だと思うけど」
「そうか、いつまでもそこにいると怪しまれるから今からケンを迎えにやる。もうちょっと待ってろ」
男がケンに目で合図し、頷いたケンが勢いよく外に飛び出して行った。ケンが出て行ってすぐ、男は再び母親に電話を入れた。
「全部帰したんだろうな」
「家のもの以外誰もいません」
「いいだろ、金は用意できたのか」
「あと少しです」
「明日の朝、受け取り場所を連絡する。くれぐれも変な考えは起こすなよ」
「約束は守ります。一度息子の声を聞かせてください」
母親の要求に男はチッと舌打ちし、電話を康祐の耳にあてた。
「もしもし?」
「康祐、大丈夫か!」
父親であった。
「父さん、大丈夫だよ」
男が電話を引き離した。
「父親か、約束さえ守れば息子はちゃんと返してやる。要はお宅次第ということだ。金はあんたに運んでもらう。いいな、明日の朝だからな」
またも一方的に電話を切った。それから大きく深呼吸すると、昂ぶった気持ちを落ち着かせるように目を瞑った。やがて腹の底から湧き上がってくる喜びに肩を震わせ声を出して笑い始めた。
しばらく笑い続け、笑いが治まってからソファで横になっている女の横に歩いた。女の顔に掛かっているタオルを外し、冷水で絞り替えて顔に戻す。それから女の髪を2、3回撫でると耳元に何やら囁いた。乱暴した事を謝っているのだろうか、女の顔が崩れタオルが微かに揺れ動いた。
いったい二人はどういう関係なのだろう。目の前に映る異様な光景に康祐の不安はここに来て急激に高まって行った。
ケンと一緒に帰ってきた洋子は疲れ切った表情をしていた。余程眠かったのか、二階に上ったきり夜になっても下りてこなかった。ケンも昨夜からの疲れでタオルケットを引っ掛けて床に転がるとすぐに眠ってしまった。
午前三時、男はケンと洋子を起こした。辺りが明るくなる前に行動を起こすつもりらしい。女に康祐を見張るように言い残し、三人の乗った車は家から5キロ離れた公園に向かった。公園駐車場入口付近に車を止め、金を運んで来る場所を父親に伝えた。
待つこと30分、父親の運転する車が公園内に入って来た。50台以上収容できる駐車場にポツンポツンと車が停まっている。三人の乗った車が着いて父親に電話をしてから新しく駐車した車はない。少なくとも今の段階でこの駐車場に警察が張り込んでいることはあり得ない。あとは父親についてくる車だけが要注意だ。
辺りに気を配りながら待機中の父親に電話を掛け、指定したゴミ箱に鞄を入れるように促した。静まり返った駐車場に父親の靴音が響き渡り、張り詰めた空気の中、男二人女一人の視線が父親の手元に集中した。
ゴミ箱に鞄を入れた父親が再び車に戻り、遠ざかって行くエンジン音が完全に聞こえなくなってから、植え込みの陰で待機していたケンと洋子がカップルを装って歩き出した。
ゴミ箱の手前10mで立ち止まり、振り返ってもう一度周りを見回す。物音一つしない中、腕を組んだ二人は尚も用心深く進んだ。
そしてゴミ箱から鞄を取り上げ、車に戻ろうと振り向いたその時、四方八方から十数人の私服警官が走り寄り、あっという間に取り囲まれた。逃げ場所はなかった。何の抵抗も出来ずに二人は捕まってしまった。
車の中から始終を見ていた男は、
「くそっ!」
舌打ちして車を急発進させた。警官全員が驚いて振り返る。走ってくる警官を振り切り、猛スピードで男は逃げた。
何故だ何故なんだ。金を運んでくる場所を指定したのは駐車場に着いてからだ。駐車場に着く前から警察が張り込んでいることは100%あり得ない。やはり父親に付いて来ていたのか。それにしてもあんなに多い人数にどうして気が付かなかったのか。男は唇を噛んだ。
「絶対に許さねえ」
明るくなっていく夜明けの町を、男は鬼の形相で車を走らせていた。
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