再出発  
   回り道をしながら康祐は再びソシエールの営業畑に戻った。当然のことながら京子の姿はなく、京子の席には新しく入った女子社員が座っていた。康祐が営業部に戻って来たいきさつを知るのは部長だけであった。
「これからだぞ」
 挨拶に行った康祐の肩を部長は力強く叩いた。部長から出た言葉はそれだけで、余計なことを言わない部長の一言は逆に康祐のやる気を奮い立たせた。
 空白の時間を取り戻すべくひたすら仕事に専念した。入社した当初は目の前のものをミスなくこなせば仕事が出来ていると思っていた。時を重ねればそれなりの結果は自然に付いてくるものだと自己満足の上であぐらを掻いていた。一人ひとりの努力の結合で会社が成り立っていることなど考えたこともなかった。
 企業を離れ、ひと時でも個人商店の生業を経験したことにより、組織で形成された会社の持つ意味が理解出来るようになった。仕事に対する取り組み方、目の持って行き方が変わり、その時々の状況を把握しながら鋭角に切り込む技も身に付いてきた。日を追う毎に自分を認識してくれる人物が増え、思わぬ場所で、思わぬ展開から、思わぬ商談が成立することもあった。
 努力に値する結果が得られ、それに伴う充実感が合致した時、またひとつ新たな波を乗り超えることが出来る。康祐の内に秘められた営業能力が少しずつ、そして確実に開花し始めていた。
 その後、山崎とは頻繁に連絡を取り合い、時間を見つけては飲みに行くようになった。相変わらず山崎は彼女なしの日々を送っているが、ただ一つ進歩したのは、例の美女に告白して見事玉砕したものの思ったよりダメージは小さく「またこれぞという女性に出会ったら積極的に告白する」と変な度胸がついたことである。大阪に行く前はごく普通の友達付き合いだった二人が、ここ数ヶ月で急激に親友へとスライドしていた。康祐には嬉しい収穫だった。

 本社に戻って一年、大阪の一流ホテルでティアラ展が開催されることになり、ソシエールからも出展することになった。康祐が段取りを任され主催者との打ち合わせの為に大阪に向かった。新大阪駅に着いてから約束の時間までしばらく時間があったのでミナミの支店に足を運んだ。
「菱木君!」
 康祐を見て香織が驚いた。
「お久しぶりです」
 頭を下げる康祐の腕を引っ張って、控室に招き入れた。
「元気だった?社長から大まかな話は聞いていたんだけど心配していたのよ」
 ドアを閉めるなり香織が早口で話しかけてきた。
「すみません、あの時は本当に迷惑をお掛けしました」
 両手を膝に置いて丁寧に頭を下げた。
「本社に戻ったって聞いたから、いつ会えるか楽しみにしていたのよ」
「僕も楽しみでした。斉藤さんは相変わらず綺麗で来てよかった」
「何言ってるの、お世辞はいいのよ」
「お世辞じゃないですよ、正直な気持ちです」
「まあね、お世辞でも嬉しいけどね」
 少し喋って落ち着いたのか、香織がコーヒーを入れ始めた。
「順調みたいですね」
 康祐が店の方に顔を向けると、
「まあまあってとこかな。何と言っても贅沢品だからね、財布の紐が硬くって。美しい石をどれだけ眺めたってお腹は膨れないしさ、その点、食の業界は強いよね」
 飛び出した香織の本音に、
「それを言うかな宝石店の店長が」
 康祐が声を上げて笑った。香織がコーヒーの入ったコップを康祐の前に置いてくれた。
「前にも斉藤さんに入れて貰いましたね。あの時、自分でよかったら相談に乗るって言ってもらえたこと、嬉しくてはっきり覚えています」
 京子のことで悩んでいた時のことが思い出された。結果的に香織に相談することはなかったが、香織の心遣いに温かいものを感じていた。
「人生は長いよ、一つ山を越えたと思ったら又次の山が立ちはだかる。なかなか自分の思い通りには進まないのよね」
「そうですね、思い通りに行かないことの方が多いかも知れない」
「それでも前に進んで行くしかない」
「僕ね、昔は危険な道はなるたけ通りたくないって思っていました。遠回りになっても確実な道を行くほうが賢明だと思っていたんです。でもそれじゃあ駄目なんだって最近になって気が付いたんです」
 香織を前にちょっと真剣な顔になった。
「その通りよ、遠回りしていては人に先を越されちゃう。入社初日に部長からね、のそのそ歩いていたら目的地に着いた時には余り物しか残っていないぞ、これからは賢いずるさを身に付ける努力をしなさいって言われたの。だから菱木君もいっぱいずるさを身につけて欲しい。商売上手な人は実は誰よりもずるいのに、テクニックという聞こえのいい言葉に置き換えて人の間をすいすい泳いで行っちゃう。全く持って抜け目がないのよね」
 康祐を大きくする為に新店舗に異動させたのは部長だった。部長の意図ではない迂回道路を経ての帰還だったが、康祐の人間的な成長も手伝って周りの康祐に対する態度が明らかに変わってきていた。社長の息子という一歩下がった位置から横並びの目線になり、同じフィールドに立っているという同胞意識を周りから感じられるようになった。    
 遠くない父の退陣の日には自信を持って送り出したい。康祐の意識改革は後継者としての自覚を胸に刻み込んだ日から始まっていた。
「僕、そろそろ引き上げます。今日はティアラ展の打ち合わせでこっちに来たんです。遅れるといけないので」
「ああティアラ展ね、菱木君が担当なの?」
「そうなんですよ、何故撲なのか分からないんだけど部長直々のお達しで」
「なるほど、自分の目の黒いうちに色々経験させて置きたいって訳ね」
「その意味でも精一杯頑張ろうと思っています」
 立ち上がって軽くお辞儀をした。
「あ、今日ね、小沢君お休みの日なのよ。折角菱木君が来てくれたのにね」
「そうみたいですね、僕も会いたかったです」
「少し前から奥さんと子どもさん、こっちに来てるのよ」
「そうなんですか、それは良かった。催しが終わるまでにまた何回か来ますので、小沢さんにはよろしく言っておいて下さい」
 康祐の後ろに付いて香織が店の外まで送ってくれた。
「本当にまた寄ってね、菱木君の顔見るの好きだから」
「僕のこと好きですか?」
 康祐がにやけた顔で香織を覗き込んだ。
「大好きよ」
「じゃあ、プロポーズしたら受けてくれます?」
「もちろんよ、だって玉の輿だもん」
「何だそんなことか」
「ううん、純粋に好きよ」
「そうか、何か嬉しいな。今度ご飯に誘いますよ」
「有難う、気長に待ってる」
 香織に大人の女性を感じた。もう恋愛はしないのかな、あんなに綺麗なのに勿体ないよな。地下鉄の階段を降りながらそんな余計なことを思っていた。