決断  
   コーヒーの匂いで目が覚めた。康祐がパンを焼いている。立ち上がって横に並んだ。
「起きてこなくていいよ、今日はスペッシャルサービスだから座ってて」
 とは言うものの、テーブルに並んだのはインスタントコーヒーとバターを塗ったトーストだけだった。
「すごいスペッシャルサービス、ハムも卵もないのね」
「いや、こういうことをすること自体がスペシャルなんだよ」
 朝のひと時、康祐の優しさが嬉しかった。
「今日もう一日休んだ方がいいんじゃないの」
「うん、そのつもりで二日間休みを取ってる。午前中に医院に行って、終わったら真っ直ぐ帰って来る」
「じゃあ、帰りにまた弁当買って帰るよ」
「晩御飯くらい作れるからいいよ」
「いいから、寝転んでテレビでも見とけって」
 康祐は出かけて行った。随分と気持ちが楽になっていた。

「どうですか昨日はよく眠れましたか?」
「はい、眠りすぎて目が腫れています」
 和音の言葉に医師が笑った。
「じゃあ、診察します」
 医師が立ち上がり、和音も隣の部屋に移動した。立派な椅子なのに驚くほど座り心地が悪い。スイッチと共に背中が倒れ、機械の力で強制的に足を開かされる構造には違和感を覚えた。
「もう大丈夫です。三日後にもう一度洗浄に来てください。異常がなければそれで終わりです」
 医師の言葉にほっとした。医師と看護師に感謝を述べ、会計を済まして外に出た。帰り道、医院の近くに多くの店屋があったことに初めて気が付いた。菓子屋があり、洋品店があり、布団屋がある。花屋があり、靴屋があり、ペットフード店もあった。こんなに店が並んでいたのに、和音の目にはその何屋も映っていなかった。
 花屋の店先にピンクのバラを見つけた。以前、康祐から貰ったバラと同じ色。
「買って帰ろうかな」
 懐かしくて手を伸ばした時、後から名前を呼ばれた。顔を見なくても声で分かる。背筋に冷たいものが流れた。
「話があるんだ」
 時沢が和音の前に回って来た。
「体、大丈夫なのか?痛いところはないのか?」
 労わりの言葉なのに、素直に受け取れなかった。
「すぐに切り上げるから喫茶店にでも入ろう」
 断わるわけにはいかなかった。時沢の後をついて、近くの喫茶店で向かい合った。ポケットからタバコの箱を取り出した時沢が和音の前に突き出してきた。和音が首を横に振ると、
「いいから取れよ」
 箱を揺らして再度勧めてきた。
「やめたから」
 和音の言葉に時沢が驚いた。
「いつから?」
「あの後すぐ」
 うつむく和音に時沢が疑うような目を向けた。へえーっという風に2、3回頷いてタバコをしまうとテーブルに肘を付き、上体を前に倒してきた。
「実はさ、昨日お前が病院から出てくるのを待って後を付けたんだ」
 和音はびっくりして顔を上げた。
「余りにもぼろっちいアパートで驚いたよ。お前がアパートに入ったのを見てから一旦引き上げたんだけどさ、気になって夕方もう一度行って見たんだ。入ろうかどうかためらっていたらさ、現れたんだよあいつが。ボロ自転車のカゴからビニール袋を出して中に入って行った」
 ビニール袋。康祐が買ってきた弁当の袋だ。
「いやー、驚いたねえ、目を疑ったよ。何時からなんだ、まさか俺を置いてけぼりにしたあの後からじゃねえよな。 堕ろしたのはあいつのガキか」
 和音は答えなかった。
「無責任な野郎だな、大会社の御曹司が聞いて呆れるぜ。お前、こんな目に遭ってそれでも幸せなのか?これからも妊娠するたびに堕ろすのかよ、それでいいのかよ、傷つくのはお前だろうが。俺さ、今は真面目に働いているんだ。給料もそこそこ貰ってる。だからお前を食わせる位は出来るんだ。どうだろ、もう一度俺と一緒に暮らさないか?」
 びっくりした。思っても見ないことであった。何を言っているのかと思った。しかし時沢は和音の驚きには介せず喋り続けた。
「お前まさか、あいつと結婚しようとか思ってるんじゃないだろうな。お前とあいつは水と油なんだよ、いくらかき混ぜても絶対に混ざらないんだよ。お前だってそんなことくらい分かってるんだろ? 出来た子供を産むことも出来ない状態のどこに未来があるってんだよ。それとも時効を待って籍を入れようとでも思ってんのか? それじゃあ詐欺だろ。向こうの家族のことを考えて見ろよ気がついたら誘拐犯が戸籍に入ってるんだ、青天の霹靂ってこういうことを言うんじゃないのか?手塩に掛けて育てた息子がやっと一人前に成長したと思ったら、わけの分からない女に横取りされてさ、親は堪ったもんじゃないぜ。あいつはさ、その辺の小さな商店の息子とは訳が違うんだ。背負ってるもんがデカイんだよ。物事には引き時ってものがあるんだ。俺と出会ったのがそのタイミングだと思わないか? 類は友を呼ぶってさ、お前はどこにいても俺と巡り会う、そういう運命になっているんだよ。叶わない夢を見ていないで現実に戻れって」
 時沢の目は驚くほど真剣だった。その真剣さが和音には怖かった。
「俺さ、やっぱりお前のことが好きなんだ。これからは以前のように迷惑を掛けたりしない、乱暴もしない、一生懸命働いてお前を幸せにするから、約束するから、だから俺の所に戻ってくれないか」
 勝手な男だと思った。散々好き放題しておきながら今更そんなことが言えるのかと思った。目の前の時沢を見ながら、この男を愛した理由は何だったのだろうかと考えていた。
「まあさ、お前だって突然こんなこと言われたって、どうしていいか分からないだろう。今すぐにとは言わない、頭の整理が出来てからでいいんだ。お前の気持ちが固まるまで待ってるよ。残酷な言い方かも知れないけど、近い将来お前は必ず捨てられる。自分で分かっているつもりでも現実にその日が来たら辛くて誰かの手を掴みたくなるんだ。だから俺が手を貸してやるって言ってんだ。今の自分の立場と、あいつとあいつの家族の立場をよーく考えて見るんだな。フカヒレスープの中に沢庵の切れっ端しを浮かべちゃ駄目だろ。名作と駄作、名曲と雑音、それがお前たち二人の関係なんだよ。俺の言ってること間違ってると思うか? 間違ってると思うんならこのまま突っ走って行くがいいさ。自分さえよければいいという考えがどこまで通用するか見届けてやるよ」
 どこまでも勝手な男だと思ったが反論出来ないものがあった。悔しいけれど時沢の言うこと、いちいちがその通りだと思った。康祐にとっての自分の存在価値とは何だろう。本来、康祐の進むべき道に自分はいない人間だった。今なら遅くない。康祐が引き返せば自分が存在しなかった地点に戻れる。康祐の行く手を塞いでいるのは自分に違いなかった。
「まあ、なんだかんだ言っても最終的にはお前の人生はお前が決めること。引くのも自由、このまま突き進んで行くのも自由、自分の好きにするがいいさ。ただ俺はお前を待ってるから、それだけは言っておく。気持ちが固まったら連絡してくれ」
 和音を残して時沢は去って行った。時沢の言葉が突き刺さっていた。時沢に言われて康祐に大切な家族がいたことに初めて気が付いた。家族にどれほどの迷惑をかけていたか想像したこともなかった。自分のことしか考えていないと言われて、冷水を浴びせられた気がした。
 喫茶店を出てそのまま海に向かった。休みの日に康祐とよく行った浜辺、ボロ自転車を見つけた場所で腰を下ろした。海からの風が体の中をすり抜けて行く。思い出されるのは楽しいことばかりなのに、すぐ先の状態が曇って見えなかった。
 身の丈に合わない恋愛に引き返そうと思ったことは何度もあった。それを無理矢理封じ込めて来た。温かい空気に浸りながら、ずっと康祐の優しさを感じていたかった。康祐と歩調を合わせ康祐と同じ道を歩く、そんなささやかな幸せを全霊で守ってきた。しかし和音が望んだ「幸せ」という名の形容動詞は、何の武器も持たない和音の手で守りきれるものではなかった。
 康祐の家族をこれ以上悲しませたくない。これ以上傷つけたくない。康祐の未来は家族の未来でもあるはず。家族の苦しみを踏み台にして、未来への切符を取りに行くことなど出来るはずがなかった。取り返しがつかなくなる前に康祐を家族に返さなくては。辛いけれど、その時期が来たのだと思った。
 風に煽られたカイトが遠くの空でくるくる舞っていた。墜落寸前のカイトを見ながら、指標のない分かれ道で立ちすくんでいる自分の姿を重ね合わせていた。