二人の生活  
   大阪駅に着いて康祐は岡山までの切符を買った。伯父の家が岡山の宇野港の近くにあり、小学生の頃は夏休みになると毎年のように遊びに行っていた。海を行き交う船を見るのが好きで滞在の殆んどを海で過ごしていた。
 チャンスがあればいつかまた宇野の港を訪れたいとずっと思っていた。こんな状態で岡山に向かうとは思っても見なかったが、岡山以外で康祐が知っている場所はなかった。
 電車に乗る前に康祐は斉藤香織に電話を入れた。大阪を離れること、店には戻れないこと、一方的な説明に、しかし香織は理由を聞いてこなかった。驚きもしなかったし、咎めることもしなかった。ただ最後に、
「生きていると思わぬ事態に出くわすことがあるものよ。いわれのない暴力で息を止められそうになることもある。でもそこでへたばってしまうか、もう一度自分の足で立ち上がるか、それは気持ちの持ち方次第よ。今、私が言えることは死ぬ気で頑張れっていうことだけ。いつか笑顔で再会出来ることを願っているから」
 そう言い残して電話は切れた。隣で和音がうつろな目で遠くを見ていた。
「大丈夫?」
 聞こえているのかいないのか、前を向いたままぼーっとしている。新幹線に乗ってからも何も喋らず、岡山駅に到着した時の、
「いい天気だなあ、観光でもするか?」
 康祐の冗談に、
「しないよ」
 いじけた声を出した。岡山駅から電車を乗り換えて宇野駅で降り、そこから宇野港まで歩いた。十数年振りに見る港の様子は昔とは違っていたが、壮大な海の景色は変わっていなかった。
「伯父さんの家がこの近くにあってさ、子供の頃に従兄とよくこの海で遊んでいたんだ」
 康祐が懐かしそうに辺りを見渡した。
「綺麗な所ね」
 手をつないで防波堤を歩いた。透き通るような空の青さ、遠く水平線まで続く海の碧さに、縮んでいた和音の心が少しずつ解けていくようだった。気持ちのいい海風に吹かれながら島を行き交う船を眺めていた。いつまでも海を眺めているわけには行かない状況が分かっていながら、二人ともこの場所を動きたくないと思った。
「部屋を探さなきゃあな」
 康祐がゆっくり立ち上がった。
「ここで聞いて見たら?」
 和音がポケットに手を突っ込み、駅前で配っていた住宅情報のチラシを取り出した。不動産屋に電話を掛けて空き部屋を尋ねると、
「丁度いい物件がありますよ」
 どこの不動産屋でも言う台詞が返ってきた。指定された場所で待っていると50歳位の小太りの男が汗を拭きながらやってきた。男の案内で部屋を見て回り、相当古いが窓から海の見えるアパートに決めた。意外と親切な不動産屋で、布団や洗面具、取り敢えずの日用品の買出しなどに付き合ってくれた。
 夜、和音は店のオーナーに電話を入れた。文句を言われるだろうと覚悟していたのにオーナーは逆に心配してくれていた。昼過ぎまで警察がいたと言う。
「本当にすみません、色々お世話になっていながらこんな騒ぎを起こして」
「いいよ気にしなくて、俺はあんたが陰日向なく真面目に働いてくれていたのを知っているから。店の方は本部から人を出すから心配しなくて大丈夫だよ」
 オーナーは何でもないことのように言ってくれた。
「すみません、本当に申し訳なく思っています。もう戻れませんので面倒だと思いますが私の持物は全部処分してもらえますか。それと猫の事なんですけど、八時になると来ますのでエサをお願いしたいのですが」
 クロの顔を見るのが毎日の楽しみだった。やっと懐いてくれるようになったクロと別れるのは寂しかった。
「わかったよ、猫のことは心配しなくていいから、それより体に気をつけてな」
 オーナーは最後まで優しかった。最初に和音が店に現れた時から理由ありなのを承知してくれていたのかも知れない。
「本当に長い間お世話になりました。感謝しています。どうぞお元気で」
 泣きそうになるのをこらえて電話を切った。テレビもラジオもない静かな部屋に潮騒の音が聞こえていた。
「このまま時間が止まればいいのに」
 康祐にもたれながら和音がつぶやいた。
「大丈夫だって、いくらどしゃ降りでも止まない雨はないって言うじゃん」
 和音を励ましながら、その日が一日も早く訪れてくれればいいと願った。日頃案じていた不安が形になって現われてしまった。再び和音を恐怖に追い込んだ責任を感じる。
 康祐の頭に京子の顔が浮かんだ。京子を鬼にさせたのは自分。恨むべきではない。これまで取ってきた京子に対する中途半端な態度こそ反省しなければならないと思った。
 夜遅く、康祐は家に電話を入れた。
「一体どうしたって言うんだ、警察から電話が掛かってきたぞ。まさかお前、あの犯人と一緒じゃないだろうな」
 電話口で父が怒鳴った。
「理由を話すと長くなる。しばらく大阪を離れるけど、詳しいことはいずれ話すから、とにかく今は黙って見ていて欲しい。店長には電話しておいたから、すぐに本社の方に連絡が行くと思う。本当にごめん。それと携帯は今日で処分するから掛けても繋がらないからね。母さんに心配しないでって言っておいて」
 返事を聞かず、電話を切った。
「怒ってた?」
 和音が顔を曇らせる。
「大丈夫、気にしなくていいよ。明日から仕事探しだな。今日は疲れたし風呂入って寝ようか」
 ユニットではあるが風呂は付いていた。交代で風呂に入り、買ってきたばかりの一組の布団にくるまった。天井を見るとあちこちに年季の入ったシミが浮き出ている。
「こんな所で一緒にいるなんて思いも寄らなかった」
 康祐がそのシミを見ながら苦笑した。
「ごめんね康祐、あたしの為に人生変わっちゃったね」
 和音が申し訳なさそうに康祐を見る。
「僕の方こそ和音の人生を変えたんだよ。タクシーの中から和音を見つけて声を掛けたのは僕の方なんだから。あの時あのまま走り去っていたら、今も和音はあのクリーニング屋の二階で静かに過ごせてたんだ」
「私は大丈夫よ。でも康祐はきっとこの先、後悔するような気がする」
「僕の選んだ人生だよ後悔なんかしない。和音と出会えたこと神に感謝している」
「神なんてこの世にいないよ」
「なんで?神を信じないの?」
「信じないよ、神なんていないと思ってる」
「教会とか行ったことないの?」
「あるわけないじゃん。神がいたらこんな不公平な世の中、創るわけないよ」
「じゃあさ、いつか教会で結婚式を挙げよう。そしたら神がいるってことに気付くから」
 言ってから康祐は電灯から長く垂れ下がった紐を引っ張った。暗くなった部屋に窓からの月明かりが差し込む。いつか教会で結婚式を挙げよう、康祐はそう言った。康祐の腕の中で和音はふっと笑った。こんな時にまたいつもの面白くない冗談を言っている。康祐との結婚などあり得るはずがない。和音にとってあまりにも非現実的な言葉に、手を伸ばさなくてもすぐ横にいる康祐がとてつもなく遠い存在に思えた。
「どうしたの?」
 康祐が顔を覗き込んできた。
「ううん」
 和音は目を閉じて康祐に体を預けた。

  あくる朝、生活に必要な買い足しを和音に任せて康祐は一人でアパートを出た。従業員募集の貼り紙がないか辺りを見渡しながら歩く。しばらく行くと魚市場があった。いい匂いにつられて近寄ると店先であなごを焼いている。このあたりの名物らしく市場のあちこちで売られていた。足を止めて覗き込むと、
「兄ちゃんあなご買って行ってよ、美味しくて舌がとろけちゃうよ」
 恰幅のいいおばさんが声をかけて来た。一瞬買おうかなと思ったが、あなごなんか買っている場合じゃない。
「また後で寄ります。あ、すみません、この辺に本屋さんないですか?」
 おばさんに尋ねた。
「本屋は駅まで行かないとないね、何の本買うの?」
「あ、無料の求人情報誌が欲しいんだけど」
「求人?仕事探してるのかい?」
 言いながら、おばさんは手を休めない。
「向こうの角に酒屋があるだろ?あそこの店員が急に辞めちゃってさ、親父がぼやいてたから行ってみたら?力仕事だから嫌なら仕方ないけどね」
 しめたと思った。おばさんに礼を言って急いで酒屋に向かった。ガラス戸に店員募集の貼り紙がしてあり、隙間から覗いていると、
「いらっしゃい」
 康祐の父親と同じ年格好の親父が出てきた。
「あの、店員を募集しているって聞いたんですけど」
「おう、そうか、そうか、こっちに来て」
 愛想のいい親父である。昨日スーパーで買っておいた履歴書を取り出した。履歴書に本当の事は書けない。年齢以外は学歴も職歴も適当にごまかした。親父もバイト如きにこだりはない様子で、とにかく配達をしてくれる男が欲しいらしく、即採用が決まった。
 こんなに早く仕事が見つかるとは思っていなかった。帰りにあなご屋のおばさんの所に寄って礼を言い、あなごを一匹買った。買い物から帰ってきた和音に報告すると、
「よかったね」
 あなごを見ながら嬉しそうに笑った。翌日から和音も仕事探しに出かけたが、思うようには見つからず一週間が過ぎてしまった。焦り出していると、
「ゆっくり探せばいいって」
 康祐は楽観的であった。酒屋の休日、二人で浜辺を歩いていると半分砂に埋まっている古ぼけた自転車を見つけた。錆が浮いていてどう見ても持ち主不在の自転車である。ハンドルを持ち上げて揺すってみると本体は意外にしっかりしていた。
「これ、動くぜ」
 道まで引っ張って行って破れかけたサドルにまたがった。油が切れているのでガサガサ擦れる音はするものの動きはそんなに悪くない。
「これで仕事に通ったら歩かなくて済むな、いいものを見つけた」
 康祐はご機嫌であった。アパートの前で錆を落とし細かい部分を磨いていると、隣の部屋のおじさんが横を通りかかった。仕事をしているのかいないのか、いつ会っても酒の匂いをさせている。
「おう、いい自転車だね、俺のと似ている」
 おじさんが指差した先に今にも壊れそうなボロ自転車があった。あれよりはましだよ。康祐は思ったが、
「ほんとだ、似てますね」
 ヘラヘラと愛想笑いをした。
「パンクしたら言いに来な、修理道具揃ってるから」
 おじさんは親切に言ってくれた。

  数日後、和音が国道沿いの「めし屋」の仕事を見つけて来た。10時から3時までの昼時だけのパートである。5時間しか働けないのが不満だが贅沢は言っていられない。条件のいい仕事が見つかるまで頑張って働こうと思った。
 康祐が酒屋で働き始めて二ヶ月が経った頃、引越しをするという得意先から中古の洗濯機と冷蔵庫を貰い受け、和音は手を叩いて喜んだ。夏の真っ盛り、風呂から上がって冷蔵庫でよく冷えたビールを飲む時、康祐はこの上なく幸せそうな顔をした。クーラーのない生活は康祐には初めての経験。海からの風も扇風機の風も涼を取りきれない。
「ま、いいか、クーラーの掛けすぎは体に良くないしさ」
 汗を流しながらの食事は、それでもそれなりに充実していた。
「はい、クーラー」
 和音が笑いながら康祐の口に氷をほうり込む。
「おーっ冷てえ」
 子供のやるような事が単純に楽しかった。 夏真っ盛り、陽が落ちるのを待ってよく浜辺に出掛けた。見晴らしのいい場所で腰を下ろし、静かな空間にどっぷり浸る。
「海ってさ、なんでこんなに気持ちがいいんだろう」
 海を見る和音の表情は穏やかだった。
「でも機嫌を損なうと怖いよ、あっという間に人を飲み込むからね」
「ああそうね、日頃物静かな人も何かの拍子に急に切れたりする、あれと似ているね」
「大勢の人が目に見えないストレスを抱えているんだよ」
「あたし今、ストレスゼロよ」
「ほんと?」
「康祐といるから」
 和音が笑った。都会の喧騒の中では互いの肩が触れたというだけで大喧嘩になる。狭い電車の中では足を踏んだ踏まないで殺し合いになることもある。一触即発のコンクリートジャングルから離れて緩やかな時の流れに身を置ける環境は、お金では買えない素晴らしいものだった。
「康祐の伯父さんはやさしい人だった?」
「うん、僕にも自分の子もにも分け隔てなく接してくれてたよ。だから毎年来れたんだ」
「そうか、よかったね」
「和音の伯父さんはそうじゃなかったんだね」
「伯父さんにとって私は厄介者だったの。高校卒業後は私を店で働かせるつもりだったから、就職して尞に入るって言ったら猛烈に怒って、出て行く日に挨拶しても振り向いても貰えなかった」
「でも高校はちゃんと行かせてくれたんだ」
「だって自分の娘は大学に行ってるから世間体があるでしょ。今でも忘れられないのがあの家での初めてのクリスマスのこと。そこん家の子の友達が何人か遊びに来てケーキを切り分けていたんだけど、その中の一人があの子の分は?ってあたしを見たの。そしたら伯母さんがあの子はケーキが嫌いなのって言って、あたしに向こうへ行けって目で合図したの。すごく悲しかった。人を恨むなんていけないことだけど、あの家の家族をずっと恨んで大きくなった気がする」
 一人で生きて行く道を選んだ和音の旅立ちを祝福くれる者はいなかった。一人の道を選んだ以上何が起きても自分で自分を守るしかない。誰が振り向いてくれなくても構わない、絶対に泣き言は言わないと思った。
 会社に入ってからは面倒な仕事も、押し付けられた残業も嫌がらずに引き受けた。食べる物も着る物も最低限に留め、削れない経費以外は全て貯金に回した。貯めたお金でお弁当屋を開くのが夢だった。少しずつ少しずつ、しかし確実に増えていく通帳の数字が、折れそうになる気持ちを支えてくれ、貯金の額が一千万を超えた時、夢の扉に手が掛かったと思った。