再び走り続け、やがて狭い山道から舗装された公道に出た。しょぼついていた雨も上がり、ラジオを付けるとアナウンサーの詩の朗読の後に、美しいメロディーが流れて来た。
「シンデレラ組曲か」
康祐がつぶやくと、
「あらっ、クラシック好きなの?」
和音が顔を輝かせた。
「そうじゃなくて妹がさ、ピアノでこの曲をよく弾いてるんだ」
「へえ、そうなの。うちの父もさ、昔はオーケストラのピアノ奏者だったの。ピアノを弾く父の横で指の動きを見ているのが好きだった」
「オーケストラ?」
「それがさ、小学校に入る前に突然6畳2間の長屋に引っ越しちゃってね。家族5人もいるのに片方の部屋にピアノを置いたもんだから滅茶苦茶狭くてさ。おまけに音を出すと近所から苦情が来るもんだから殆んど置いたままの状態だった。でもまあ引越しと同時に父はオーケストラを辞めて警備会社で働くようになったから練習する必要もなくなったんだけどね。で、ある日学校から帰ったらピアノがなくてさ、借金の形に持って行かれちゃったんだって。あ、あたしの名前さ、漢字でわおんって書いてかずねって読むの。音楽家の父が娘に和音なんてつけたのはいいけど音痴なのよねこれが」
言ってからくくくっと笑った。
「音痴」
康祐も何故か笑った。
「でもクラシックってさ、こんな状態で聴きたくないよね、静かなコンサート会場でゆったりした気分で聴きたいよね」
当然、和音の今の状況では、落ち着いて音楽を味わっている余裕などあるはずもない。いつまで続くか想像も出来ない逃亡の始まり。自分だけが頼りの現実を前にして、何を思いどんな気持ちで車を走らせているのだろうか。 中途半端な気休めの言葉は意味を持たない。気の利いた言葉が見つからなくて、康祐は窓の外に目を逸らせた。
公道に出たせいか対向車によく出会う。
「今どのへんかな。ガソリンがさ、もうすぐ切れそうなんだ」
和音が標識を探して辺りを見回した。
「どこまで行くの?」
「わからない、取り敢えず電車の走っている所まで」
車を乗り捨てて電車に乗り換えるつもりなのか。目的もなく行くあてもなく、今はただ行き当たりばったりで前に進んでいる状態。ガソリンがなくなった後のことなど考える余裕などないのかも知れない。
「あのさあ、あんたさあ、お金がなくて何かを我慢したって事ってないでしょ?ましてや人を誘拐してお金をふんだくるなんて思いもつかない話だよね。あたしさ、誘拐の話を聞かされた時、とんでもないって思って絶対断ろうと思った。でも時沢から、あ、あの男時沢って言うんだけどね、水は上から下に流れるもんだ、お金だって有る所から無い所へ流れていいんだって言われてさ、妙に納得しちゃったのよね。何を血迷ったんだろうね。結果は案の定、悪いことは出来ないよ。おかげで指名手配になっちゃった」
和音は卑屈に笑った。日本で戦後起きた身代金目的の誘拐事件の検挙率は実に97%。身代金を奪われたままで未検挙になった事件は一件もない。割の合わない誘拐なのに後を絶たないのは何故なのか。生活に不自由のない康祐には考えられないことであった。
ふと、康祐はケンと洋子のことを思い出した。
「捕まった二人とはどういう関係なの?」
聞いても仕方ないことだが気になって聞いてみると、以外にすらすら答えが返ってきた。
「ケンはさ、時沢の会社の従業員だったの。町でやくざにいちゃもんを付けられて殴られているところを助けてもらったのよ。時沢は空手の段持ちだからその辺のチンピラやくざなんかよりずっと強いの。倒産してから時沢の周りには誰も寄り付かなくなったのに何故かケンだけは離れて行かなかった。律儀なやつっていうか優しくてよく気がつくし、いい奴だよケンは」
そうか、そうだな、ケンはいい奴そうだ。康祐も思った。
「洋子はさ・・・」
言いかけて言葉を飲み込んだ。遠くを見る目になり、大きく深呼吸をすると、それが癖なのか垂れた前髪を左手で何回も掻き上げた。
「あたしさ、盲腸で入院していた時があったの。で、家に帰ったら洋子がいるの。パチ屋で知り合ったらしいんだけど、あたしの服を着てあたしのお茶碗でご飯食べてるから頭に来てさ、二度と洋子を引っ張り込まないでって言ったんだけど、あたしが昼間仕事でいない時に呼びつけるのよね。洋子の家で会ったらいいじゃないかって言うと、洋子の亭主は長距離運転手でいつ何どき帰ってくるかわからないから駄目だって言うの。そんなことあたしの知ったことじゃないでしょ。何であたしの家がホテル代わりに使われなきゃならないのよ。出て行かないと住居侵入で警察を呼ぶって言うと殴りかかって来てさ、ストレスから神経性胃炎になっちゃった。もう、踏んだり蹴ったりよ」
和音は大声でまくしたてた。余計なことを聞いてしまったと思った。しかし和音は止まらない。頬が高潮していた。
「それからしばらくして洋子が離婚してさ、時沢とどこか行っちゃったの。さっきの長屋が洋子の家なんだけどね。ぼろ屋だし、旦那が慰謝料代わりに置いて行ったんだって。時沢の暴力に怯えたり洋子の無神経さに腹を立てたりでいいことなんて何にもなかったのに、いざ一人になって見ると妙な寂しさを覚えてさ、自分が馬鹿に思えちゃった」
和音は口を尖らせた。康祐には想像することも出来ない歪な世界。環境の違いを見せつけられた気がした。 数年後に町で洋子とばったり出会い、お茶に誘われた。
「気が付いたら喫茶店で向かい合ってるの、笑っちゃうでしょ」
和音は可笑しそうに笑った。洋子は実にあっけらかんとしていて和音に対して罪悪感など全くなく、だから町で和音と出会っても何の躊躇いもなくお茶に誘えるのだと和音は言った。無神経な洋子に対して腹は立つものの、不思議に憎しみは湧かないとも言う。
時沢は洋子と暮らすようになってからケンと組んで無修正のわいせつDVDを販売するようになった。マンションの一室にダビング機器を何台も置いて大量に生産し、ネットで安く売る。警察に摘発されないように顧客を確保したまま1ヶ月毎にドメインを変更し徐々に規模を広げて行った。
羽振りの良くなった時沢が洋子にバッグを買ってやるために二人でブランド店に行った。洋子は30万のバッグを買ってもらい喜んでいたが、すぐ横で涼しい顔で200万のバッグを買っている父娘がいて、時沢がひたすらその父娘を睨みつけていた。
「自分より高いものを買っているというだけで、ムカッとくるプロセスがわからないでしょ?」
和音はバカバカしいという風に左手を上げて見せた。あの時点で時沢の中では満足のいく買い物をしたつもりだった。なのにすぐ横で何倍もする商品を当たり前のように買われて、勝手に自分が侮辱されたと思ったのだ。
それから数ヵ月後、テレビのドキュメンタリー番組であの時の父親がゲスト出演していた。あの人同じ、堂々とした振る舞いに時沢の嫉妬心が燃え上がった。その人物というのがソシエールの社長、康祐の父親だった。
「テレビに出るような会社の社長を相手に、なに対抗意識持ってるんだってのよね。笑っちゃうわよ」
和音は愉快そうであったが、康祐は複雑な気持ちで笑えなかった。 その後、DVDの違法販売の集中摘発が続き、その都度警察に踏み込まれそうになり時沢はサイトを閉じざるを得なくなってしまった。
そして次に思いついたのが誘拐だった。洋子が一緒にやろうと誘ってきた時に和音はとんでもないと断った。しかし計画を知ったからにはもう仲間だと言われた。
「あたしに話したことがばれると時沢に殴られるってべそを掻きだしてね。そしたらその日のうちに時沢から電話が来て、あたしも仲間に入りたがっているって洋子から聞いたって言うのよ。冗談じゃないって思ったんだけど、話をするうちに断れなくなっちゃってね」
和音は大きくため息をついた。偶然洋子に出会ったが為に冷水を浴びることになってしまった。運命なんてちょっと目を逸らした隙に変わってしまうものだ。自分同様、和音もある意味被害者なのかも知れない、と康祐は思った。
「最初さ、妹を誘拐する予定だったの。でも心臓が悪いと分かって急遽あんたに変わったの。連れ歩くのに病気持ちじゃ困るでしょ」
びっくりした。妹の沙智の顔がちらつく。沙智でなくてよかったと思った。
「心臓が悪いってさ、走ったりしちゃ駄目なの?」
和音が尋ねてきた。
「ああ、体育の授業はいつも見学だった」
「ずっと?」
「ずっと。幼稚園からずっと。だから飛んだり跳ねたりも出来ない」
「へえーっ、運動が出来ないなんてね」
「小学校の時に誰もいない校庭で走り回って死にかけたことがある。でも先生や家族に物凄い迷惑をかけたことが分かってそれ以来無茶はしなくなった。ストレスが溜まっていたんだろうね、たった一度切りの抵抗ってやつかな。」
妹の心電図が棒線になった時のことを思い出した。子供心に妹は死ぬんだと体が震えた。
「なんか切ないね」
和音の母親は和音が小学生の時に亡くなっている。和音の脳裏にもやさしかった母の顔が浮かんだ。
「でも、普段はごく普通に生活出来ているわけだから、寝たきりの人に比べたら恵まれているって本人は言ってる。ていうか言い聞かせてるっていうのが本音かな」
「へぇー、あたしなんかさ、お金はないけど至って健康。盲腸なんて病気の内に入らないし、胃炎だって環境が落ち着いたとたんに治ったし、健康って財産よね」
「うん、健康は財産だよ」
康祐が頷いた。それ以後会話は途切れてしまったが、不思議に気まずさは感じなかった。雨上がりに映える木々の煌めきが太陽に反射して眩しい。流れ行く景色に目をやりながら康祐は車の振動に体を預けていた。眠くはなかったが微かな疲労感はあった。
しばらく行くと、左手前方にガソリンスタンドが見えてきた。 ハンドルを切ってスタンド内に乗り入れると店員が二人駆け足で近寄って来た。
「千円分入れて下さい」
「はい、有難うございます」
一人の店員が後ろに走り、別の店員が泥で汚れた窓を拭いてくれた。お金が足りないのだろうか千円ではいくらも進めない。
「あの、ガソリン分のお金なら持ってますけど・・」
康祐が遠慮がちに言った。和音が、えっ?、という風に振り返った。
「あ、そうなの?満タンにしても大丈夫?」
康祐はズボンのポケットから財布を出して和音に渡した。財布を受け取った和音は、
「すみません、満タンにして下さい」
ノズルを引き出そうとしている店員に言い直した。財布の中には万札が何枚も入っていた。学生が持つ金額にしては多い。
「やっぱ金持ちだねえ、あたしの財布とはえらい違い」
代金を払い、財布を返しながら和音が皮肉った。
「世話になった人が近々結婚するので、お祝いを買う為に多めに持っていたんです。普段はそんなに持ってないです」
「ふーん」
それにしても多い。しかし和音はそれ以上は聞かなかった。ガソリンが満タンになった車は軽快に走り出した。
「満タンだとなんか速く進むような気がするね、そんなことない?」
誰もが一度は口にするベタな質問に、
「ああ、僕もそんな気がする」
康祐が真顔で答えた。気のせいだよ、と簡単にあしらわれるかと思っていた和音は嬉しそうにふふんと笑った。
「あんたさ、ガソリンスタンドで何故通報しなかったの?」
「えっ?」
和音に言われて気がついた。拘束されていた訳ではなかった。店員に一言、誘拐を告げれば終わっていた。しかし逃げなければという状況ではなかったし、100%安全地帯にいることを確信していた。
「警察から逃げ回る生活ってどんなだろうね、想像できないよ」
明らかに後悔していた。後悔している人間に自首したら逃げ回らなくていいよ、とは言えなかった。時が経つに連れ不安が募ってきたのか和音の溜息の回数が多くなり、幾度となく髪をかき揚げては落ち着きの無い表情を見せるようになっていた。
さらに進むと高速道路の案内板が見えてきた。中央自動車道大月インターチェンジまで5キロの表示。
「大月?ああ昔来たことがある。ということは、中央本線の大月駅もすぐ近くにあるはずだよ」
和音の声が明るくなった。
「良かったね、電車だと東京までそんなにかからないから夕方までに家に着けるよ」
康祐は驚いて和音を見た。大月駅で自分を降ろすつもりなのか。無理に逃げる気もなかったからしばらくは車の旅が続くと思っていた。肩透かしをくった気がした。
和音が言った通り、大月駅はすぐに見つかった。
「あのさあ、悪いんだけど警察に通報するのは家に着いてからにしてくれない?あたし一寸でも遠くに行きたいから」
駅前で車を止めると和音が申し訳なさそうに言った。言われなくてもそうするつもりでいた。黙って頷くとズボンのポケットから財布を出し、万札1枚だけ残して全部を抜き出した。
「あの、これ持って行って下さい」
目の前に出されたお金を見て和音が驚いた。
「いいよ、そんな気を遣わなくても。少しだけど預金があるからカードで下ろせるし、今までだって一文なしの時があったけど死にはしなかった。お金なんて何とでもなるもんよ」
和音は受け取らなかった。しかし康祐はお金を引っ込めなかった。
「今までとこれからとは条件が違います、あなたにお金は必要です」
康祐の言葉に和音が固まった。お金を見つめたまま動かない。しばらく迷っていたが、やがて康祐の持っているお金に手を伸ばした。
「それから、これ」
言いながら康祐は左腕の時計を外した。
「成人式の日に父がくれた物なんだ。処分すればいくらかにはなると思うから何かの足しにして」
和音の手を取って時計を押し込んできた。何をどう言っていいのか分からない。和音は驚いて自分の手の中を見つめていた。
「命を助けてくれて有難う、元気でね」
言い残して康祐は車を降りて行った。駅に消えて行く康祐の後姿を見送りながら和音はしばらくその場所を動くことが出来なかった。 |