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和音と康祐のいる長屋に転がるように駆け込んできた男は、
「失敗した、ケンと洋子が捕まった。逃げる用意をしろ」
急いで荷物をかき集め出した。
「この子どうすんのさ」
和音が康祐を見た。
「殺す」
「何言ってるの、殺しはしないって約束でしょ」
「状況が変わったんだよ、向こうが約束を破ったんだ、思い知らせてやる」
男は興奮状態にあった。
「立て!」
手錠を掛けられたまま康祐は車まで歩いた。口に粘着テープを貼られ、後部座席に倒され、上からタオルケットを被せられた。車は町の中を走り抜け、緑の多い郊外に入り、恐ろしい形相の男は長い間、口を利かなかった。
「何処に行くの?」
しびれを切らした和音が男に話しかけた。
「山だ」
「山?」
「山で殺して埋める」
「どこの山?」
「どこだっていい、山だ」
「殺さなくてもいいじゃない、山に置き去りにすれば」
「駄目だ、あいつらを許すことは出来ねえ。人を馬鹿にしやがって、後悔させてやる」
目が据わっていた。聞く耳を持たない。途中、ホームセンターを見つけた男は車を止めて中に入って行った。暫くして大きなシャベルを持って戻ってきた男に、和音はぎょっとなった。
男はシャベルを後部座席の下に置くと再び車を走らせた。
やがて車は国道に入り、行く手前方に山が見えてきた。奥多摩への表示案内が目に入る。
「奥多摩か、あそこだとそんなにかからないな、あそこにするか」
途中、パーキングエリアで車を止めた。
「腹が減った、何か食うもの買って来い」
男に言われ、車を降りた和音は歩きかけてチラッと後部座席に目をやった。動きはない。店に入って焼きそば3つとウーロン茶3缶を注文し、バッグから財布を出そうとして携帯電話が入っているのに気が付いた。今ここから警察に連絡すれば彼は助かる。通報だけして自分はここから逃げればいい。何としても殺人だけは避けたかった。迷っている暇はない。携帯を握った。
と、
「1,800円です」
店員の声に驚いて携帯を離した。慌ててお金を払い、吸い込まれるように車に戻った。袋から焼きそばと飲み物を取り出した男は、
「何でこんなに買ったんだよ」
不機嫌そうに口を歪めた。
「だって・・」
和音が後ろに顔を向けると、
「こいつはどうせ死ぬんだから食わせる必要はないんだよ」
男は歯で割り箸を割り、さっさと食べ始めた。和音はウーロン茶を開け少しだけ飲んだ。焼きそばは食べる気にはならなかった。
時間が経つにつれて辺りが暗くなり、やがてぽつぽつと雨が落ちて来た。後ろで横たわっている康祐のことが気になり、和音はずっと落ち着かなかった。どうすればいいのだろう。このままでは彼が殺されるのは時間の問題だ。どうにかして止めさせなければ。
焦るばかりで考えが浮かばなかった。車が奥多摩の入口に差しかかった頃には雨は本降りになっていた。
「なんだこの雨は、うっとおしいな」
男は運転があまり得意ではなく、ワイパーの動きが気に入らないようであった。
「ああ、もう面倒くせえ、この辺でいいか」
辺りを見渡しながら男が狭い脇道にハンドルを切った。
「だめよ、この辺はまだ民家に近いわ」
慌てた和音が男を制した。
「民家なんかないだろ、もう山道だぜ」
「まだ入口よ、山菜を採りに来ていたりキャンプに来ていたり、きっと近くに誰かいるわ」
「こんな雨の中、誰もうろうろしてねえよ」
「そんなことないって、さっきも単車の人とすれ違ったじゃない。もう少し奥の方が安全よ、ここは近すぎるって」
必死で説得する和音に男はちょっと考えて、
「そうだな、もうちょっと奥にするか」
小刻みに首を縦に振った。雨は益々激しくなって、薄暗い山道で対向車に出合うこともなくなっていた。どこに続いているのか奥に行くほど道幅が狭くなり、でこぼこが酷くなって行く。
「行き止まりじゃねえだろうな」
男が身を乗り出して前屈みになった時、急に何かが車の前に飛び出した。リスかウサギか、タヌキかも知れない。男は慌ててブレーキを踏んだ。瞬間、ズズーっという音がして後輪がぬかるみに嵌ってしまった。反動で康祐の体が座席下に転がり落ちた。男は一瞬振り向いたが舌打ちしただけですぐに顔を戻した。和音が身をよじって座席下を覗き込んでいると、
「前を向いてろ!」
男が怒鳴った。
「くそっ、どうなってんだ!何で動かないんだ!」
アクセルを踏むものの、空回りばかりで前に進まない。
「和音、後ろを押すからアクセルを踏んでくれ」
男は車を降りて後ろに廻った。男の合図でアクセルを踏むが、やはり動かない。
「何か木切れを捜してくる」
体中ずぶ濡れの男は車から離れて行き、すぐに見えなくなった。屋根を叩きつける雨の音が暗い山道に響き渡り、暫く経っても男は戻って来なかった。
「迷ったのかな・・」
そう思った瞬間、後ろを振り返っていた。逃げよう。今しかない。思い切りアクセルを踏み込んだ。しかしタイヤだけが回り車は動かない。
「駄目だ、どうしよう。ぐずぐずしていたら戻ってくる」
と、さっき男が後部座席下に置いたシャベルを思い出した。シャベルは座席下に転げ落ちた康祐の下敷きになっていた。使えるかもしれない。手錠の鍵を持って外に飛び出すと、後ろのドアを開け、座席下にはまり込んでいる康祐を揺さぶった。
「降りて、早く!急いで、出て!」
乱暴に揺すぶられた康祐がびっくりして車の外に飛び出た。手錠に鍵が差し込まれ、拘束されていた手が一瞬で自由になる。シャベルを引きずり出した和音が、
「アクセルを踏むから、ここにこれを差し込んで!」
泥にめり込んでいるタイヤを指差した。あれこれ説明している暇はない。タオルケットとシートカバーをタイヤの前に詰め、急いで運転席に戻った。
「いい?踏むからねっ!」
和音の叫び声で康祐は慌ててシャベルを押し込んだ。音を立ててタイヤがから回りし、一瞬で顔が泥だらけになる。泥しぶきを浴びながら同じ動作を繰り返すうち、やがてタイヤの下にシャベルがはまり込んだ。瞬間、穴からタイヤが飛び出て車体が前に動いた。
「早く!早く乗って!」
和音が叫び、康祐が走って助手席にすべり込んだ。
「バッグにハンカチが入ってるから」
和音が指差した康祐の足元に赤いバッグが転がっていた。中を開け、取り出したタオル地のハンカチで泥だらけの顔を拭う。叩きつける雨の中、雷音と閃光の間を縫って和音は車を走らせた。
ひたすら前を見て走り続け、ようやく闇を抜けきった頃に激しかった雨は小雨に変わっていた。辺りが明るくなるに連れ、あちこちから鳥の鳴き声が聞こえて来る。見通しのいい場所を見つけて和音がゆっくり車を止めた。
「ここまで来ればもう大丈夫よね」
乾いた声を発し、ハンドルに首を垂らした。
「あの男は?」
康祐の声も乾いていた。
「さっきのとこに置き去り」
顔を伏せたまま和音がふっと笑った。そのまましばらくハンドルに突っ伏していたが、やがて顔を起こすとつぶやくように喋りだした。
「あいつさあ、最初からあんな凶暴な男じゃなかったのよ。小さな会社だけど一応社長をしててさあ、仕事が終わるとよくご飯を食べに連れて行ってくれたの。ところがさ、信頼していた人間に騙されちゃってね、残ったのは借金だけ。まわりは蜘蛛の子を散らすように逃げて行くし、あたしとのことも奥さんにばれて結局は離婚。丸裸であたしのアパートに転がり込んで来たのよ」
聞いてもいない男のことを話す女はあの男を弁護しているつもりなのだろうか。女の真意が分からず康祐は黙って前を向いていた。
「あたしもさ、アパートの管理人に大金を盗まれた事があってさ、その時の悔しさが分かるもんだから、彼が働かないで毎日ぶらぶらしてても何も言わなかった。でもさ、いつまで経っても一向に働こうとしなくてね、やっと見つけた仕事も3日と続かない。思うように行かないことばかりで酒びたりになっちゃってね、文句を言うと暴力を振るようになっちゃったの。興奮するとブレーキが利かなくてさ、その度に別れようと思うのに時間が経てば許せちゃう。何でだろうねぇ」
青くあざになった目の下を指の先で押さえ、静かに笑った。あんな目に遭ってもまだあの男のことが好きなのだろうか。康祐には解らないことであった。
「そうだ、焼きそばがあったんだ、ねえお腹空いたでしょ」
助手席の足元から焼きそばの入った袋を引っ張り上げ、
「冷たくなってるねえ」
取り出したパックをひとつ、康祐に渡した。
「わあ、固まってるよ」
冷えて容器の形になった焼きそばを箸で持ち上げ端から齧りつく。
「でも美味しいよこれ、お腹が空いてるからかな。そんな事ない?」
聞かれた康祐が、
「ああ、美味しいです」
下を向いたまま答えた。長い間、お腹が空いているのを忘れていた。そういえばあの家に連れて来られてから水さえもまともに飲んでいなかった。ウーロン茶を流し込むと、渇いていた喉が癒されていった。
「なんか寒くなってきたね」
先に食べ終わった和音が肩をすぼめた。6月とはいえ雨の山中は気温が低い。雨でぐしゃぐしゃになったシャツが体にべっとり貼り付いて体温では乾き切らなかった。運転席の後ろに男のジャケットが落ちているのに気付いた康祐が、
「これ着たら?」
引っ張って和音に渡そうとした。
「いい、ヒーターをかけるから」
和音は手を出さなかった。ヒーターを点けると一気に暖かい空気が充満した。しかし蒸し暑い。サウナに入っているような暑さ。
「うーんダメだ、気持ち悪くなってきた」
顔をしかめた和音がヒーターを止めた。その動作が可笑しくて康祐が笑った。
「初めて笑ったね」
二人の間に小さな安堵感が生まれ、肩から力が抜けていくのを感じた。
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