| 中絶 |
| 翌朝、辺りに目を配らせながら時沢が立っていたという場所にやって来た。しかし、同じ場所に時沢はいなかった。三日続けて行ってみたが、やはり時沢には出会わなかった。 「見間違いだったのかな」 和音もそう思うようになっていた。完全に疑いが消えたわけではなかったが、少しは緊張がほぐれた。時沢のことに気を取られながらもお腹のことは忘れていなかった。妊娠12週を過ぎると手術も大掛かりになり体への負担も大きくなる。悠長に構えている時間はなかった。 仕事が引けてから、思い切って産婦人科のドアを押した。受付で渡された問診表に妊娠確認と書く。椅子に座って待っていると中からお腹の大きい女性が出てきた。晴れやかで満足そうな顔。微かな嫉妬を感じた。 名前を呼ばれて診察室に入ると、男性だとばかり思っていた医師は50歳くらいの女性だった。医師の前に座り、妊娠の場合は中絶をしたいと告げた。多くの諸事情と接してきたであろう医師は保険証も持たない和音に、必要以外のことは聞いて来なかった。妊娠を確認する為に隣の部屋に移り、下着を取って診察椅子に座った。 「動きますからね」 看護師の声と共に椅子が倒れ、90度横に動いて仕切られたカーテンの下で止まった。カーテンの向こうの自分の姿を想像するだけで惨めな気持ちになってしまう。 「妊娠に間違いありませんが、中絶でよろしいですか?」 触診の後、再度医師が確認して来た。 「はい、お願いします」 下を向いたまま小さな声で答えた。自分の体に宿っている小さな命。残酷にも自らの手で葬り去ろうとしている。何という身勝手さ、何という愚かさ、罪悪感を覚えた。本当にこうするより仕方がないのだろうか。間違っていないと自答して見るものの、決して正解でもないと思った。 あの日以後、時沢を目にすることはなかったが、100%安心出来る心境でもなかった。手術が終わって落ち着いたら改めて康祐に引越しのことを頼んで見よう。不安の限界が来る前に自分の気持ちを伝えて置きたいと思った。 手術当日、昼過ぎにアパートを出た。康祐には体調が悪いから店を休むと言っておいた。目的地が近付くに連れ、顔がこわばってくるのが分かる。歩く速度が落ち、歩幅が狭くなり、医院の看板が見えた時には完全に止まってしまった。今更引き返すことなど出来ないと分かっているのにどうしても前に進めない。立ち止まった歩道のすぐ横に飲み物の自動販売機があった。ペットボトルのお茶を買って喉に流し込んだ。お茶の味はしなかったが喉の渇きは癒せた。 「何をびびってんだろうね、往生際が悪いったら」 キャップを戻しながら苦笑いした。しばらく自販機横のフェンスにもたれて空を見上げていたが、ボトルをゴミ箱に投げ入れると覚悟を決めて歩き出した。 数十メートル歩いたところで、角から飛び出してきた男とぶつかりそうになった。 「あっ」 よろけた和音に男が手を差し出し、男を見た和音の顔から色が抜けた。時沢だった。ずっと用心して行動していたにも拘わらず、こんな時にこんな所で会うなんて。 時沢の方も驚いていた。互いに見合ったまま動かない。やがて時沢が何かを言いかけて前に出た時、和音が身を翻した。 「待てよ!」 時沢が慌てて和音の腕を掴んだ。 「逃げるなって」 振り払って逃げようとする和音を時沢が強引に引っ張り寄せた。 「驚いたぜ、久しぶりだな。元気そうじゃないか。 何時、こっちに来たんだ。 今、何処に住んでるんだ。怖い顔してないで何とか言えよ。久しぶりに会ったんだ、お茶でも飲もうじゃないか」 時沢が先に歩き出した。和音は動かなかった。 「何やってんだ、早くこいよ」 振り返った時沢が再度腕を掴んで来た。 「離して、用があるの」 和音が腕を振り払うと、時沢の表情が一変した。 「勝手なことを言うんじゃないよ。お前、俺に何をしたのか分かってるのかよ。あの後、どしゃ降りの山の中を何時間歩き続けたと思ってるんだ。お茶を飲むくらい付き合ってもいいだろうよ」 近くに人がいるにも拘わらず、大声でわめいた。 「今日は本当に駄目なの、明日、明日必ずここに来るから」 顔を歪めて頼み込む和音に、 「そんなこと信じられると思ってるのか」 時沢は吐き捨てた。 「嘘じゃない、お願い信じて、絶対に嘘はつかないから」 「そんな保証がどこにある。お前は俺を裏切った女だ、信用なんか出来るはずがないだろ」 「じゃあ、どうすれば信用してくれるの」 「携帯の番号を教えろ」 「携帯は持ってない」 「嘘をつくな」 「本当よ、調べたら」 バッグを時沢の前に突き出した。まさか、という顔で時沢が中を覗き込んだ。 「じゃあ、住所を教えろ」 「教えられない」 「お前、俺を舐めてんのか」 時沢の顔が真っ赤になった。変わっていない。興奮すると顔が鬼のように赤くなる。しかし、ここで時沢と言い争ってる時間はなかった。何としてもこの状況から抜け出さなくてはならない。 「お願い、今日は予約があるの」 「予約?」 「今日これから堕胎の手術を受けるの」 「はあっ?」 時沢の目が点になった。バッグの中から診察券と手術の際の注意事項が書かれた用紙を出して見せた。 「妊娠しちゃったの。一人では産めないでしょ、だから堕ろすの」 時沢は唖然としていた。 「嘘だと思うんなら病院まで付いてくればいい」 用紙には今日の日付と予約時間が記入されていた。 「お前、何やってんだよ、相手は誰なんだ」 「分からない、複数と接触してるから」 嘘をついた。見た目、和音の格好は地味だった。金に困っているのかと時沢は受け取った。あきらかに時沢のテンションが下がるのが分かった。口をぱくぱくさせながら次の言葉を探している。 「病院ってどこの」 「あそこ」 何メートルか先に見えている産婦人科医院の看板を指差した。看板と和音を交互に見た時沢は呆れたように顔をしかめ、暫く俯いたままの和音を見ていたが、やがて上着の内ポケットから財布を取り出し、何枚かの札を丸めて和音の手の中に押し込んで来た。 「今これしか持ち合わせがないんだ、手術代の足しにしてくれ。俺さ、今、駅前でサラ金やってんだ。東京で昔面倒を見てやった奴とばったり出会ってさ、そいつの生まれ故郷がこの辺りで、今度支店を出すから店長にならないかって誘われたんだ。まだ開店して半年足らずなんだけど、わりと繁盛してんだ。金に困ったら尋ねて来いよ相談に乗るからさ」 お金と一緒に自分の名刺を渡してきた。ふと出会った頃の優しかった時沢を思い出した。 「送っていくよ」 時沢が先に歩き出し、少し下がって時沢の後ろを歩いた。別れ際、医院の前で振り返った時沢が和音の肩を軽く抱き寄せた。 「体、大事にしろよ」 思いがけない言葉であった。妙な労わりを残して時沢は去って行った。時沢が見えなくなって急に震えが来た。心臓が早鐘を打っている。思わずその場にしゃがみ込んだ。 時沢は近くでサラ金をやっていると言った。いずれどこかで出会うことは否めない。嘘の度合いはどうであれ、時沢を騙したことに違いはなかった。騙されたことが分かれば今度こそ時沢は黙っていない。恐怖で顔が引きつった。 中から人が出てきて我に返った。慌てて立ち上がり、二、三歩、歩いて「えっ」と声を上げた。内ももからひざ下にかけて生温い感触。スカートを持ち上げると、両足にまとわり付くようにいく筋もの赤い血が糸を引いていた。びっくりして中に駆け込むと、看護師からすぐに処置室に入るように言われた。 診察を始めた医師は手を添えたとたん「あっ」と声を上げた。血の塊が零れ落ち、医師は和音に進行流産を告げた。すでに子宮の出口が開いており流産が始まっているとのこと。子宮内の内容物を取り除く為に麻酔が施され、気が付いた時は別室のベッドに寝かされていた。 「目が覚めました?もう大丈夫ですからね。あと少しだけ横になっていて下さい」 看護師が横に立っていた。まだ麻酔が効いているのかぼやっとしている。再び目を瞑り、意識がはっきりした頃に再び看護師が入ってきた。 「どうですか?起きられますか?」 看護師に促され、ゆっくりと体を起こした。 「先生からお話がありますので」 看護師が体を支えてくれた。診察室に入り、カルテに何やら書き込んでいる医師の前に座った。 「すでに流産が始まっていたので、それについての処置をしました。明日また経過を見ますので診療時間内に来てください。今回は防ぎ様のない流産でしたが、流産になっていなければ人工中絶を施していたわけですから、こういうことを繰り返さない為にもきちんと避妊は心がけて下さい。心身ともにダメージを受けるのは女性の方ですからね。帰ってから何かありましたら夜中でも構いませんので連絡して下さい」 医師の言葉を垂れた頭の上で聞いた。胸が痛い、心が痛い。自分から望んだ手術ではあったが流産となると受け止め方が違った。自分の体に宿った命は、人工的に剥がされる前に自ら堕りてしまった。胎児にも意思があったのだと思わずにいられない。 アパートに帰る途中、ベビーバギーに乗せられた赤ちゃんを見た。何ヶ月くらいだろう、バギーの上でよく眠っていた。「可愛いな」と思ってすれ違ったとたん、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。一つの命をこの世に送り出せなかったことがこんなにも悲しい。時の流れはこの愚かな行為を風化してくれるだろうか。覚悟はしていたものの、想像以上の心の痛みに溢れ出る涙が止まらなかった。 アパートに帰って布団の上に横たわると静かに目を瞑った。麻酔はとっくに切れているはずのにどこかぼやっとしている。眠いような、それでいて神経は起きたままで、目を閉じたり開けたりの繰り返しの後、いつしか深い眠りに落ちて行った。 目が覚めた時、横に康祐がいた。 「あ、ごめん、帰ってたの? 起こしてくれればよかったのに」 びっくりして体を起こした。 「いい、起きなくて」 康祐が手で制した。 「今日は早い目に帰らせて貰ったんだ。よく寝ていたからコンビニまで行って弁当買ってきた」 テーブルの上に弁当とお茶の用意がしてあった。 そういえば朝から何も食べていなかった。 「起きて大丈夫?」 「大丈夫よ、調子が悪い時はよく眠るとすぐに治るの。今日はいっぱい寝たからもう復活した」 心配そうに覗き込む康祐に、和音がOKサインをして見せた。 「大阪でさ、あたしが風邪を引いた時、あの時も弁当買ってきてくれたよね。覚えてる?」 「うん」 「まさか康祐が来ると思ってなかったから、びっくりしちゃって」 「うん」 「すごく美味しかったよ、今でも覚えてる」 「うん」 「早いねえ、あれからもうすぐ一年だよ。どんどん年取っちゃうよ」 「うん」 「何よ、うんうんって、面倒くさいの?」 和音が可笑しそうに笑った。それでも黙っている康祐に、 「どうしたの?」 和音のテンションも下がってしまった。 「ごめん、和音」 「なに?」 「中、見ちゃった」 「ん?」 「バッグから財布が出かかっていたから中に入れようと思って。そしたら診察券が見えて」 「あ」 「今日大変だったんだろ? 何にも出来ないでごめん」 見詰め合ったまま、少しの沈黙があった。 「康祐、謝るのはあたしの方。あたし一人の子供じゃないのに康祐に黙って処理したあたしの方が悪い。でもね、堕ろすつもりで家を出たんだけど、行く途中で流産が始まっちゃったの。どの道、赤ちゃんは助からなかったの。今の状態で子供を作ることは許されないってことなんだと思う。こういうことを繰り返さない為にも避妊はちゃんとしなさいって先生に言われちゃったけどね」 髪を掻き揚げ、照れたように笑った。 「ごめん、辛い思いをさせて。でもさ、これからはちゃんと相談して欲しいんだ。満足がいく答えを出せるかどうか自信はないけど、和音が一人で苦しみを抱えこむ姿を見たくないよ。今回のことは知らなかったで済む問題じゃないと思うし」 康祐の本音だった。和音の気遣いが重すぎて辛い。 「そうだね、ひとり相撲してた。康祐に相談していたら結果は違っていたかも知れないのにね」 和音はふと、子供の頃に読んだ「賢者の贈り物」という本を思い出した。 仲のいい夫婦がいた。その家の主人は懐中時計を大事にしていた。奥さんは長くて綺麗な髪が自慢だった。でも主人の懐中時計には鎖がなく、奥さんの髪には髪飾りがなかった。クリスマスの日に主人は懐中時計を売って奥さんの髪に似合う櫛を買って来た。奥さんは長い髪を売って主人の時計に付ける鎖を買ってきた。優しさと切なさが隣り合わせの物語。その時はよく分からなかったお互いを思いやるという行為が、今なら分かると思った。
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| 1 誘 拐 | 2 逃亡のはじまり | 3 元気でね | 4 社会人 | 5 父のこと | 6 新生活 | 7 オープンに向けて | ||||||
| 8 初デート | 9 新 年 | 10 古 巣 | 11 後 悔 | 12 ほころび | 13 二人の生活 | 14 失 意 | ||||||
| 15 新しい命 | 16 中 絶 | 17 決 断 | 18 別 れ | 19 友 人 | 20 再出発 | 21 運命の日 |