別れ  
 

「診察どうだった?」
玄関の戸を開けるなり康祐が聞いて来た。
「大丈夫だった、三日後にもう一度診てもらって異常がなければ終わりなの」
「そうか、よかった」
 和音を軽く抱き寄せ、ポンポンと背中を叩いた。
「今日は配達が多くていっぱい汗かいちゃったから、先に風呂入るよ」
 肩にかけていたショルダーを下ろし、着替えのシャツとパンツを持って風呂場に入って行った。暑さに弱くちょっと動くだけで暑い暑いと騒ぎ立てる康祐が好きだった。風呂上りに冷えたビールを飲む時、この上なく幸せそうな顔をする康祐が好きだった。康祐の笑顔を覚えておきたい。康祐の仕草を覚えておきたい。康祐を全身で愛した日々はもっと覚えておきたかった。
「あのさ、話があるんだけど」
 食事の後、和音が徐に切り出した。
「うん」
「テレビ消してもいい?」
 いつにない和音の真剣な表情に康祐も改まった。
「あたしさ妊娠して初めて気が付いたの。このままでは子供を産むことも出来ない、人並みな生活を望むのは無理なんだって。月日は流れても状態は足踏みのままで一歩も前になんか進んでいなかった。目の前の幸せに浸っている場合じゃなかったのよ。自分の侵した罪を償わなければ人生のスタートラインに立つことさえ出来ない。康祐、前に神様は居るって言ったよね。その神様が報告しに来たんだよ、貴女の幸せタイムはもうお終いですよって。康祐との生活は神様があたしにくれた期限付きのプレゼント。だから二人の関係はこれで終わりなの。あたしとの事は人生の寄り道だったと思って。康祐と過ごした日々はあたしの一生の宝物。康祐と別れても思い出があるから生きていける。綺麗な体になって人生をやり直そうと思うの。次の診察が終わったら警察に出頭する、分かってくれるよね」
 半日、海を見ながら考えた。その中で出した結論。康祐との別れ。和音の中ではすでに整理が付いていた。再び訪れるであろう孤独の生活も覚悟出来ていた。しかし康祐にとっては思いも寄らない別れの言葉。唐突すぎて意味が飲み込めない。
「何?何を言ってるんだ。和音は何の話をしているんだ。二人の関係が終わりって何だよ、神様って何だよ、言ってる意味が分からないよ」
 口を突き出し、顔を歪めた。
「このままの状態で、このままの生活は続けられないってことよ。」
「何故続けられないんだよ。和音は今と違う何を望んでいるんだよ。子供がいない生活では満足出来ないってことかよ。二人だけの生活は嫌ってことかよ。警察に行くっていうならそれでもいいよ和音が自由になるまで待ってればいいってことだろ?子供はそのあとで作ればいい。そういうことだろ?なら待ってるよ、それなら問題がないんだろ?」
 頭の中がパニックになっていた。すぐには受け止められる状況ではなかった。
「駄目よ康祐、あたしを待たないで。康祐はあたしなんかじゃなく、ちゃんとした家のお嬢さんと結婚する義務がある。康祐は会社のトップになる人なのよ、犯罪者と暮らせる訳がない。自分の立場を認識しなくちゃ駄目よ。あたしに責任を感じないで。康祐は本当に優しかった。康祐と出会えて幸せだった。あたしのことは大丈夫だから、いつかきっと自分の力で幸せになって見せるから」
 別れの日は必ず来ると思っていた。分かっていながらその日が来るのが怖かった。だから自分なりの理由をつけて康祐の傍にいた。別れ際は綺麗でいたい。康祐と過ごした日々は長さではなくその内容。充実した素晴らしい恋愛だったと思える。
「嫌だよ、和音と別れたくない、訳分かんないよ」
 泣きそうな顔の康祐に、
「あのさ、引き際の悪い男は値打ちを下げるんだって」
 冗談のつもりで言った和音の言葉に、カッとなった康祐が、
「何だよ、引き際が悪いってどういうことだよ、勝手なこと言うなよ。いきなりこんなこと言われてハイそうですかって言えるかよ。俺が嫌いになったのならハッキリそう言えばいいだろ。回りくどい言い方はやめろよ。子供が出来たのも気が付かない鈍感な男とはもう一緒には暮らして行けない、子供を産むことも出来ない生活なんてもうご免だってはっきり言えばいいだろ、何カッコ付けてんだよ」
 立ち上がって、大声でわめいた。
「康祐、そうじゃないって」
 和音も大声を出した。
「分かった分かったよ、悪かったよ頼りない男で。よく分かったから和音の好きにすればいい。引き止めないよ。それでいいんだろ」
「康祐、私が心から好きになった人は康祐だけよ」
「やめてくれ、お為ごかしは沢山だよ」
「そうじゃない、あたし達にはこうするしか道がないのよ」
「そうかい、和音がそう思うんならそうすればいいよ」
「分かって、これはどうする事も出来ないあたし達の運命なのよ」
「馬鹿らしい、何が運命だよ。都合のいい言葉を遣うのはやめてくれ」
「康祐、でも本当にそうなのよ、運命なのよ」
 和音の言葉は康祐には重すぎた。

  次の日から和音の話しかけに康裕は一切返事をしなくなった。朝出て行って夜は12時を過ぎてからしか帰ってこない。話したいこと、話して置かなければならないこと、いっぱいあった筈なのに、会話らしい会話もないまま康祐が仕事に行っている間に和音は出て行ってしまった。テーブルの上に和音が残して行った紙切れがあった。

 康祐
 いっぱいのやさしさを有難う 。
 元気でね 。    和音

 康祐は紙切れを握りつぶして、声を上げて泣いた。

 和音の証言により手配中の時沢も逮捕された。和音の身柄は東京に移され、しばらくして康祐も東京に戻った。 両親を前に和音とのいきさつを説明する。話の最後に康祐は和音と結婚したいと言った。じっと聞いてくれていた母であったが、
「彼女から離れて行ったのならもう忘れて」
 結婚という言葉には流石に動揺を隠し切れないようであった。
「どうしても結婚すると言うのなら、後継者のことは考えなければならないな」
 父もため息をついた。道理であった。
「親不孝をしてすみません、悩んだ末に決めたことです。会社のことは申し訳なく思っています。誰か信頼できる人に後をお願いして下さい。彼女が自由になったら一緒に東京を離れようと思っています、どうか許して下さい」
 頭を下げる康祐に、
「康祐、あなたは今はまだ頭が混乱していて、自分の将来のこととか会社のこととか冷静に考えられない状態だと思うの。少し間を置いてこれからのことを考えて見て。時間があなたに冷静さを与えてくれると思うの」
 母が諭すように言う。
「ごめん母さん、僕の気持ちは変わらない」
 呻くように言うと椅子から立ち上がった。母が悲しそうな顔をする。
「嘆願書を出すよ、何といってもあの人はお前を助けてくれた人だから」
 父の言葉が康祐の背中を追った。精一杯の父のやさしさ。小さく頷いて自分の部屋に戻った。しばらくして母がコーヒーを運んで来てくれた。机の上に置いて、何も言わずに部屋を出て行く。母を悲しませていることも辛かった。ベッドに身を投げ出して天井を見つめていると、妹の沙智が顔を覗かせた。
「よっ、兄貴久しぶり」
「沙智か、コンテスト残念だったな」
「充分だよ、あれがあたしの実力」
 沙智は母が運んできたコーヒーに砂糖を入れて飲み出した。
「来年は卒業だろ、あとどうすんの」
「ソシエールに入って、やり手の女社長になる」
「お前、さっきの話聞いていたな」
「あたしさ、難しいこと分かんないけど、兄貴、会社の事なんか考える必要ないよ。まずは自分ありきでしょ。兄貴がいなくても会社は何の影響もないし、自分をかい被るほど兄貴は大きくないって。それより自分の愛する人を幸せにする事の方が大切だと思う。あたしならそうして欲しい。会社の事はさ、人に任せてさっさと出て行っちゃいな。お母さんだってそのうち諦めるって」
沙智は慰めに来てくれたのだろうか。説得力があろうとなかろうと気持ちは楽になる。
「お前少し会わないうちに兄貴に説教するようになったのか」
「説教じゃないよ感想だよ」
 沙智は無邪気に笑った。
「兄貴が好きになった人だもん、あたし応援するよ」
 半分以上コーヒーを飲んで沙智は部屋を出て行った。

 翌日、父菱木忠雄は拘留中の和音に面会を申し込んだ。初めて目にする和音の姿に流石の忠雄も緊張の色を隠せなかった。
「康祐の父、菱木忠雄です」
 和音を真っ直ぐ見ながら自分の存在を伝えた。
「宮崎和音です。大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 和音は両手を膝に置き、大きく頭を下げた。
「康祐は面会に来ましたか?」
「いいえ、まだ」
「そうですか、康祐はあなたが出てくるのを待って結婚したいと言っています、それについてあなたはどう思われますか」
一番聞いて置かなくてはならない質問。攻撃的ではなかったが、穏やかな口調でもなかった。
「康祐さんとは結婚出来ないことは分かっています。私たちはもう別れました。どうか心配なさらないで下さい。身の清算が出来たら東京を離れます。二度と康祐さんには近付きません。お約束します」
 和音はひと言ひと言、自分をも納得させるように答えた。
「完全に別れたのですか?」
 忠雄が少し驚いた表情を見せた。
「はい、別れました」
「本当ですか?」
「本当です」
「康祐はそうは言っていませんが」
「本当です、私が警察に出頭する前に別れました。だから心配なさらないで下さい」
「あなたに面会に来ると思いますが」
「来られてもお会いすることはありません」
「面会しないということですか?」
「はい、そうです」
「康祐は理解しないと思いますが」
「わたしはもう岸を離れました。引き返すことはありません。時が経てば康祐さんも理解して下さることと思います」
 次の言葉を言おうとして忠雄が躊躇した。和音を見つめたまま動かない。張り詰めた空気が漂う中、和音がふっと表情を崩した。
「あの、歌舞伎って御覧になられます?あれって門閥制とか世襲制とかが根強くって、世間一般の人間にはなかなか足を踏み入れることの出来ない世界なんですよね。私と康祐さんとも住む世界が違っていたんです。康祐さんは責任感の強い人ですから結婚と言う言葉を口にされたのだと思います。でも時が経てば私のことは康祐さんの記憶の中から消えてしまうと思います。康祐さんに伝えて下さい、私は大丈夫です。逃げ回っておどおどした日々を過ごしていた時より、今の方がずっと気持ちが楽だって」
 康祐との別れを決心する前から自分のいるべき位置は康祐の横ではないと認識していた。しかしどんな状況であれ別れは辛い。その辛さを癒してくれるのは時間の経過しかない。流れ行く時間によって痛みのかさぶたが剥がれ落ち、新たな細胞が現れた時、二度目の人生に向かって歩き出せそうな気がする。 
 忠雄が抱いていた和音の印象が違って見えた。和音の口から出る言葉は耳障りのいい旋律に聞こえる。康祐が和音を愛した理由がほんの少し分かったような気がした。
「和音さん、私たちはあなたが思っているような由緒ある家柄じゃないですよ。ソシエールは私の父親が無一文から立ち上げた、言わば成り上がりです。たまたま高度成長の波に乗って成功を収めましたがサラブレッドでも何でもありません。百年、二百年、あるいはそれ以上の歴史を持つブランド社から見ればうちの会社など馬の骨です。あなたが自分を卑下する必要は何もありません。実は、あなたに会う前は財産目当ての女という偏見を持っていました。何としても康祐とは切れてもらわなくては困る、そう思っていました。でも今は違います。自分とあなたはどう違うんだろう、金銭的に余裕があるということがそんなに偉いんだろうか。同じ人間、お金のあるなしで人を見下したりする権利など何処にもない、そう思います」
 和音が驚いて忠雄を見た。予期せぬ言葉だった。息子の命を危険にさらした女が目の前にいる。何をどう非難されようとも甘んじて受け止める覚悟でいた。忠雄の言葉が、いつか聞いた康祐の言葉と重なる。
「金があるのがそんなに偉いのかって、啖呵切ればいいじゃん」
 育った環境の違いから意見がすれ違い気まずくなったあの時、康祐も今の忠雄と同じ様な事を言っていた。急に康祐の父が身近な存在に思えた。肩の力が抜け、心のひだが揺れ動くのを感じる。
「あなたは康祐の命を助けてくれました。刑法に解放による刑の軽減と言うのがあるそうです。誘拐された者を安全な場所に解放したときはその刑を軽減するというものです。それにあなたは主犯でもない。従犯の場合は正犯の刑をも軽減されます。執行猶予になるように私からも書類を提出します。結果はどうなるか分かりません、でも実刑が来ても康祐はあなたを待っていると思います。それからの事は二人で決めたらいいでしょう」
 忠雄の言葉に和音は愕然となった。罪を犯した自分を受け入れてくれている。息子の愛した一人の女性として、その存在を認めようとしてくれている。信じられない言葉に胸が震えた。
 康祐に出会うまでの自分を振り返り、目を吊り上げて生きて来た年月を思った。たった一人で生きる自分を哀れに思われるのが悔しくて、虚勢を張り、平静を装い、その場その場を強引にやり過ごして来た。
 時沢との生活は一時の寂しさを紛らわせてくれはしたものの、心の空洞を埋めてくれるものではなかった。康祐と出会い、人を愛することの意味、愛される事の喜びを知った。人を愛するという事は自分をも愛せるという事。自分自身に愛しさを感じた時、人は優しくなれる。叶わない恋に終わりが来ても心の財産は残る。康祐がくれたやさしさは生涯忘れることはない。
 しかしながら忠雄が自分を受け入れてくれる寛容さは息子を愛するが故の言葉。本音を押しやって息子を理解しようとする父親の苦渋が胸に痛く伝わってくる。

 和音は思った。康祐と別れたことを決して後悔してはならない。やさしい言葉をかけてくれるこの人の為にも潔く身を引く事が自分に出来る康祐と康祐の家族への最大の償いだと思った。ドアの向こうに消えて行く忠雄の後姿を見ながら、遠い昔に別れた父の姿を思い出していた。