事件から三年。康祐はソシエール本社の外商営業部にいた。8階建てのビルの1階が本店舗、2階から4階が本社事務所、5階から上が貸事務所になっていた。
事件のことは康祐の記憶から薄れつつあった。ひたすら仕事を覚える事に専念し、日々学ぶことの多さに追われていた。多少の失敗があっても前を見て進む。反省はしても後悔はしない。時を経るに連れ会社の輪郭が見えてきて、仕事の楽しさも味わえるようになってきた。近い将来父親の後を継いで会社を背負って行かなくてはならない。ぼんやりと時を過ごしているわけには行かなかった。
営業部に限り、外回りから帰った時に女子社員がお茶を運んで来てくれる。今どきではあるが、先代から続いている慣習であった。
その女子社員が松浦京子だと気がついたのは、京子が入社して1ヶ月ほど経ってからだった。
「どうぞ」
とお茶を出されて、
「有難う」
答えはしても、京子の顔をまともに見たことはなかった。ある日差し出されたコップが自分のと違っていた。あれ?誰かのと間違っている。京子を呼び止めようとして名前を覚えていないことに気が付いた。追いかけるのも面倒なのでそのままにしておいたら、あくる日も昨日と同じコップが差し出された。
「あ、これ、僕のと違うんだけど」
コップを指差しながら初めてまともに京子の顔を見た。
「すみません、菱木さんのコップ割っちゃったんです」
すまなそうな声で答えが返ってきた。
「えっ、このコップは?」
「勝手に買い替えました。気に入らないですか?」
「あ、そんなことないよ。コップなんて何でもいいんだ」
言いながら、おう可愛い子だなあ、と思った。
「いつも君がお茶を入れてくれてたんだ、どうも有難う」
康祐の言葉に京子は顔を赤くした。
「今年入って来たんだっけ」
「はい。短大を出て3月に入社しました」
「そうだよな、ごめん名前覚えてなくて、その」
「松浦京子です」
「松浦さんか、これからもよろしく」
康祐の言葉に京子はぺこりと頭を下げて離れて行った。営業部は殆どが男で、つい男同士で話をしてしまう。毎日出社すると1時間後には出て行き、外から帰ってくると報告のための書類作りや顧客の要望に応えるべく商品確認などで忙しい。女子社員に声をかけている暇はなかった。当然京子の存在にも気を留めたことはなく、顔と名前を認識したのはその日が初めてであった。
次の日から、京子は康祐にお茶を出す時に何か一言添えるようになった。晴れの日には、
「今日はいい天気でよかったですね」
夜に得意先と大事な約束がある時には、
「話、上手くいくといいですね」
たわいもない一言だがその一言が康祐には快く感じられた。 それからしばらくして京子がそれとなく食事を誘ってくるようになった。いつも断るのは悪いような気がして仕事が早く終わった時に誘いに応じるようになっていた。
ただ、一時間ほどの食事の間、康祐は仕事の話ばかりしていた。京子は仕事の話ではなくプライベートな話をしたかった。康祐のことをいっぱい知りたいと思ったし、自分のことも康祐に知って貰いたいと思っていた。
しかし康祐にとって京子はあくまでも同僚の域であり、それ以下でもなく、それ以上でもなかった。京子の何が知りたいということもなく、京子との食事は流れに逆らわない日常のひとコマであった。
ある日のこと、しびれを切らしたように京子が語りかけてきた。
「菱木さん、今付き合っている女の人いらっしゃいますか?もしいないのなら私と付き合ってもらえませんか?。私、営業部に配属された時から菱木さんだけを見ていました。結婚を前提にとは言いません、とりあえず付き合って欲しいのです。そして私のことを知って下さい。その上で自分には合わないと思ったら、はっきり断って下さい。菱木さんは将来会社を継ぐ大事な人で私はただのOL、釣り合いが取れないのは承知の上です。断られても恨んだりしません。でもチャンスを下さい。私、菱木さんが好きなんです。駄目でしょうか」
女性の方からの誘いに応じることの認識が康祐には欠けていた。これだけの告白にどれほどの勇気がいるか康祐には分かっていなかった。あまりにもストレートな告白にただびっくりした。
まだ24歳。今の地点で自分の中で結婚の占める割合は限りなくゼロに近かった。仕事を覚えることに精一杯で結婚のことなど考えたこともなかった。自分が結婚の対象として見られていたことに驚きを感じる。20歳の京子が急に大人びて見えた。これはもしかしたら大変な事なのかも知れない。中途半端な答え方をしては京子を傷つけてしまう。今の自分の立場、結婚に対する考えをきちんと伝えて置かなければならないと思った。
「あのさ、僕は結婚に釣り合いとか不釣り合いとか、そんなものはないと思っているよ。もちろん親や周りの人の意見を無視することは出来ないけど、最終的には自分の伴侶は自分で決めようと思っている。自分の人生を人に左右されたくないし中途半端な妥協もしたくない。ただ今はまだ結婚のことは考えられない。やるべきことがいっぱいあるし、やりたいこともある。仕事以外のことを考える余裕がないんだ。本当に申し訳ないんだけど君とは付き合えない。というか、今は誰とも付き合う気がないんだ。分かってもらえるかな」
言葉を選びながら言ったつもりだった。京子は悲しそうな顔をしてテーブルに目を伏せた。康祐はふと高校の時に一年ほど付き合った同級生のことを思い出した。背が小さくて少しぽっちゃりめで、明るくてよく笑う娘であった。クラスは違ったが廊下ですれ違う度に何故か気になって、ある日思い切って声を掛けてみた。
「私も前から気になっていました」
彼女から恥ずかしそうに返事が返ってきた。以来、放課後になるとよく二人でファーストフード店に寄り道するようになった。話の内容など何もなかったけれど、ただ一緒にいるだけで楽しかった。休みの日には話題の映画を見たり、催し物で賑わうアミューズメントパークにも足を運んだ。
付き合い出して一年が過ぎた頃、彼女を家に連れてきた。ところが彼女は門の前で表札を見上げたまま動こうとしなかった。
「どうしたの?入るよ」
康祐に促されて彼女は中に入った。玄関には大理石が敷き詰められ、1フロアが吹き抜けになっていた。康祐の部屋に入っても彼女は突っ立ったまま表情を硬くしていた。広くて綺麗な部屋。窓にゆらめくブリリアントブルーのカーテン。ゆったりしたベッドの横にはオーディオセットが白木の壁に平然と納まっていた。
母が紅茶とケーキを持って入って来た。
「いらっしゃい、ゆっくりして行ってね」
にっこり笑いかける母に、
「こんにちは、すみません」
答える声が小さかった。
「食べようか」
康祐が先にケーキに手をつけた。しかし彼女は食べようとしない。
「食べて」
再度の康祐の勧めにも頷くだけで食べようとしなかった。ファーストフード店ではしゃぎながらお喋りしていた彼女とあきらかに様子が違う。初めて男友達の家に来て緊張してるのかな?単純にそう思った。それから10分もしない内に彼女は帰ると言い出した。二人で遊んだ日はいつも彼女の家の近くまで送っていたので、当然その日も送って行くつもりだった。しかし彼女は寄るところがあるからと一人で帰って行った。どうしたんだろう、何か変なことでも言ったかな。彼女の残していったケーキを見ながら理由を考えていた。
あくる日、廊下で彼女に呼び止められた。
「ごめんなさい、もう付き合えません」
びっくりして理由を聞いた。彼女は康祐の家の玄関周りと自分の家の広さが同じだと言った。家の広さと付き合いを止めることに何の関係があるのだろう。彼女の言っている意味が分からなかった。それ以上の説明はなく彼女は康祐から離れて行った。
今、目の前の京子から釣り合いという言葉を聞かされてあの時の彼女の言葉を思い出していた。彼女は釣り合いを考えて去っていったのか。釣り合いとは人にそれほどの威圧感を与えるものなのだろうか。
京子に告白されて釣り合いなど関係ないといった言葉に嘘はなかった。しかし仕事で忙しいから付き合えないという理由は違っていた。京子のことを嫌いではなかったが付き合いたいと思う相手ではなかった。付き合うからには真剣に付き合いたい。だから仕事を断る口実にした。体のいい断り方に嫌気を感じないわけではない。
「これって、やっぱり失恋ですよね」
彼女の言葉に康祐は詰まった。これ以上どう答えればいいのだろう。
「本当にごめん、今は仕事のことで頭がいっぱいなんだ。だから今言ったように・・」
またも同じことを説明しようとすると、
「菱木さん、企画の吉井さんどう思います?」
京子が、はしょった声でかぶせて来た。意味が分からず、えっ?と答えた。
「吉井さん、菱木さんと同期でしたよね。ルックスはいまいちだけど、よく働くし浮気もしなさそうだし、この際だから一度アタックしてみようかな」
プチトマトを口に放り込み、にっこり笑った。あっけにとられた。女は変わり身が早いとは聞いていたがこうも見事な方向転換を見せられると言葉が出ない。別れた相手に未練たらしく想いを引きずるのはやはり男の方なのか。
「振られちゃったら仕方ない、いつまでも足踏みしてられないもんね。菱木さん気にしなくていいですよ、じゃぁ帰ります。ごちそうさまでした」
料理を半分ほど残して京子は店を出て行った。振られたのはこっちだよ。グラスの水を喉に流し込むと天井を見上げてため息をついた。
「菱木さ~ん」
あくる朝、階段を上っていると後ろから声を掛けられた。
「おはようございます」
京子であった。いつもと全く変わりない。
「ああ、おはよう」
戸惑いながら挨拶を返した。京子はそのまま横をすり抜けて、すぐに見えなくなった。昨夜、京子からの告白を断ってから何時間も経っていない。帰りの様子から落ち込んではなさそうだと思っていたが、交際を断られた相手にわざわざ声をかけて挨拶してくるのは何なのだろうと思った。少し拍子抜けしたがほっとしたのも事実であった。
営業部のドアを開けようとした時、後ろから肩を叩かれた。
「部長がお呼びだから今から会議室に行くように」
課長であった。少し歩いた所で先輩の小沢に呼び止められた。小沢も部長に呼ばれたという。小沢は康祐の10年先輩で外商営業部主任でもあった。営業についてのいろはを教えてもらう為、入社して3ヶ月間小沢について歩いた。ひとり立ちをしてからも分からないことがあると決まって小沢に相談していた。康祐が一番好きな先輩兼上司でもあった。
会議室に入ると女性が一人、横顔を見せて座っていた。
「斉藤さん!」
小沢が女性に駆け寄った。
「あら小沢君久しぶり。同じ建物にいるのにちっとも会わないね、元気だった?」
柔らかな物腰で女性が握手を求めて来た。
「菱木君、4階の庶務課の斉藤さん。3年前まで同じ営業部におられたんだ」
小沢が女性を紹介した。
「菱木康祐です、よろしくお願いします」
「斉藤香織と言います、こちらこそよろしくお願いします」
笑った顔が美しかった。康祐には初対面であったが、女性の方は康祐を承知しているようであった。 部長が入って来て、部長を軸にL字型に三人が座った。テーブルの上に数種類の印刷物が置かれてあり、一番上の書類を手に取って部長が話し始めた。
「実は今度、大阪のミナミで新店舗をオープンすることになった。全国的には10店舗目で、大阪ではキタの梅田店に続いて2店目となる。場所は御堂筋ブランド街と呼ばれる新橋交差点界隈。この辺りかつては銀行の支店や企業のショールームなどのオフィス街だったのが不況のあおりで銀行の統廃合が進み、それと共にショールームも次々消えて、空き店舗になった場所にブランド各社が目を付けたというわけだ。今現在新橋交差点の半径500mに世界のブランド店が約20店舗進出している。今回その一角にうちも加わることになった。春に倒産した証券会社の1階を改装したもので準備は万端。オープン予定は10月1日。ミナミのクリスマス商戦に向けて店の存在をアピールしたい。幹部会議でスタッフについて検討された結果、支店長に斉藤君、主任に小沢君、サブに菱木君に決まった。サポーターとして宝石販売経験者数名を派遣会社に依頼している。こういうことなんだが君たちには是非承知してもらいたい。斉藤君、引き受けてくれるかね」
部長が斉藤香織を見た。香織の顔が引き締まった。人事異動の話かも知れないとは思っていた。新店舗についての情報も少しではあるが耳に入って来ていた。営業から庶務に移っての3年間、辞表をバッグに押し込んで出すタイミングを計っていた。営業に戻れる嬉しさ。天職と思っていた仕事がまた出来る。しかし、外商ではなく店舗の責任者とは予想もしなかったポジション。戸惑いと嬉しさが交錯する。上層部が決めたことである。断れば二度とチャンスはない。
「行かせてもらいます」
香織の言葉に部長が頷いた。
「小沢君はどうかな、子どもがいるんだったよな、何歳だっけ」
「4歳です」
「4歳か、離れて暮らすのはちょっと辛いなあ」
部長の言葉に小沢が姿勢を正した。
「さしあたっては店の状態が落ち着くまでの3年ということなんだ。3年が過ぎて本社に帰ってきた時は君の立場も今より良くなっていると思う。奥さんとよく相談して明日にでも返事をくれないか」
香織と同様、断ることは出来ない。転勤を断って窓際にやられた先輩を見て来ている。要は単身で行くか家族を連れて行くかであった。
「分かりました、よろしくお願いします」
小沢が頭を下げた。
「菱木君は社長も承知済みだ。新店舗に携わるのは君にとっていい勉強になる。君は将来この会社を背負っていかなくてはならない重要な人物だ。人とは違う速度で歩く必要がある。ふらふらよそ見をしている暇はない。見るもの聞くものすべてを吸収して転んでもただで起きてはいけない。手に触れたものは何でもいいから掴んで起きろ。純金が混じっていることがある。世の中に無駄はない、努力を惜しまず追い越されたら抜き返せ。常に後継者の自覚を持ってこの計画を成功に導いて欲しい。幹部一同、君には大いなる期待を寄せている」
部長は熱かった。熱い部長をこんな間近で見るのは初めてであった。 「はい」 と答えながら、部長って何かの動物に似ているなと思った。せいうち、トド、ゾウアザラシ。そんな康祐の目に書類を見ている斉藤香織の横顔が目に映った。端正な顔立ち。この人は楊貴妃みたいだなあ。ぼんやり思った。 新店舗についての概要説明がしばらく続いた後、
「では、今後の詳細は準備室の方から連絡が行くと思うので、心づもりしておくように」
部長が立ち上がり、同じように三人が立ち上がり、それぞれが一礼して会議室を出た。営業部に戻る途中、小沢に斉藤香織のことを尋ねた。
「斉藤さんはすごい人だよ」
小沢は斉藤香織を尊敬していると言った。小沢がまだ新人の頃、五年先輩の香織はいつもトップと成績を争っていた。常に努力を惜しまず、ゆるやかに確実に足跡を残して行く。中には天性の美貌を振りかざして大手企業の取締役に接近し、妻や愛人への贈り物と称して何百、何千万もの宝石を強引に売りつけていると中傷する者もいた。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。ひたすら自分の商法を信じ、どんな局面に陥っても後ずさりすることはなかった。
事件は数年前小沢の目の前で起こった。朝礼が終わって銘々が自分の席に戻りかけた時だった。
「斉藤はいるか!斉藤を出せ!」
20代後半の男が部屋に入って来るなり大声でわめいた。皆が一斉に振り向き、名指しされた香織も振り返った。男は香織を認めると一直線に突進して来た。全身でぶつかってきた男に、香織が
「あっ」と声を上げ、男が香織の身体から離れると同時に香織の身体が崩れ落ちた。男の持ったナイフから赤い血が滴り落ち、一瞬の静寂の後、周りから悲鳴が上がった。男はその場で取り押さえられ香織は救急車で病院に搬送された。幸い刺される瞬間身を避けたのか内臓を傷つけはしたものの命に別状はなかった。
逮捕された男の供述によると、男は最近業績を悪化させているある宝石会社の営業マンで、以前より問い合わせを受けていた商品を先取りで調達したにも拘らず、香織の介入により反故にされてしまい憎々しく思っていたと言う。それがつい先日、またもや同じような理由で契約を破棄され、頭に血が昇って犯行に至ったとのことであった。
その日の出来事は一斉にメディアで取り上げられ、刺した男の愚行もさることながら『強引に顧客を横取りした女性営業マンの悲劇』と酷評する報道も伝えられた。仕入れの先走りで商品が宙に浮くことなど、どの世界でもあり得ること。それをいちいち逆恨みする方が間違っている。ただ取られた相手が女性だということでその男が仲間から笑いものにされたという経緯もあった。
事件後、香織の今後の方向について幹部で話し合いが持たれた。営業部に在籍の十数年、香織は会社に多大な功績をもたらしてきた。香織の並外れた営業力は社内でも評価が高く、香織の営業方針に口を挟むものはいなかった。しかしマスコミに酷評されたことにより香織の今後の動向に陰を差すのではないかと懸念され「会社の名前に傷が付いた」とあからさまに非難する幹部もいた。
傷が癒えて戻ってきた香織に営業部の席はなかった。部長から、周りが鎮まるまで庶務課で時をやり過ごして欲しいと言われ、黙って事態を受け入れた。
そして今、3年の月日を経て満を持しての営業復帰であった。
「斉藤さんは多分燃えているよ」
小沢は嬉しそうに笑った。
「店が上手くいけば外商に戻られるんでしょうか」
「どうなんだろう、とにかくバイタリティーだけは誰にも負けない人だからね」
「結婚はされていないんですか?」
「婚約者がいたんだけど事故で相手の人が亡くなってね。トラウマになっているのか、それ以後誰とも付き合ってないようなんだけどね」
小沢が顔を曇らせた。 |