打ち合わせが予定より長引いて、外に出た時は夜になっていた。新大阪までの切符を買う為に路線図を見上げていると、以前和音が住んでいた駅名が目に入った。無意識にその駅の切符を買い、気がつけば新大阪駅とは逆方向の電車に乗っていた。目的地まで約20分、降り立った駅の風景があの頃と何一つ変わっていないことに小さな感動を覚えた。
改札口を出てすぐの和音と行ったレストランの前で立ち止まり、ガラス越しに中を覗いた。嬉しそうな顔をした和音が今にもドアの向こうから出て来そうな気がした。レストランの佇まいにも、花壇を映し出す灯りにも、和音と初めて食事した時の思い出が重なり、ほんの少し胸が痛んだ。
道路沿いに歩いて行くと、やがて「あさひクリーニング」の黄色のテントが見えて来た。入り口に目を落とすと、看板の横で黒い塊がちょろちょろ動いている。
「あれっ、クロだ!クロじゃないか」
懐かしさでクロの傍に駆け寄ろうとした時、中から皿を持った女性が出て来た。一瞬和音かと思った。女性は皿をクロの前に置いてやるとすぐに戻って行った。
「懐かしいなあクロ、ちゃんと生きてたんだ」
周りを気にすることなく勢いよく食べ始めたクロは、一片も残さず食べ終わると、舌をぺろぺろさせながら何処かに消えて行った。クロがいなくなってすぐに女性が皿を引き上げに出て来た。再び中に入ったのを見届けて、康祐も引き上げることにした。
”猫は三年の恩を三日で忘れる”という諺を聞いたことがある。クロはどうなんだろう。和音のことはもう忘れてしまっただろうか。店に背を向けて歩き出しながら、それでも元気なクロを見ることが出来て良かったと思った。
と、後方から女性二人の声が聞こえた。何かやりとりしているようである。立ち止まって耳を澄ました。
「じゃあ、明日必ず連絡させてもらいますから」
「すみません、ややこしいことを言いまして」
「いえいえ、大丈夫ですよ。では今日はこれで」
「よろしくお願いします」
「どうぞご心配なく」
聞き覚えのある声に思わず振り返った。店を出た声の主がこちらに向かって歩いてくる。バッグを肩に掛けながらその人がゆっくり顔を上げた。康祐を認識するまでほんの数秒。中途半端な体勢のまま、その人は固まってしまった。進むことも引くことも出来ない。僅か数メートルの間隔で時間が止まった。
やがて、
「和音!」
乾いた叫び声と共に康祐が和音の元に駆け寄った。力任せに和音を抱き締める。抱き締められた和音は呆然としていた。驚きで声が出ない。何が起きたのか、何故康祐がここにいるのか、どこまで時間を遡ればこの状態の意味が理解出来るのか。足が震えて崩れそうになり、思い切り康祐の服を掴んだ。
二人がこの場所で再会してから三年の月日が流れていた。出会いと別れの時を経て、今また同じ場所で出会っている。偶然か偶然でないかは感じ方によって違う。康祐には二度の再会が単なる偶然ではないと思えた。
「和音」
耳元で囁く康祐の声に和音が静かに目を瞑った。懐かしい匂い、やさしい温もり、康祐に抱き締められて徐々にその感触が蘇えってくる。服を掴んでいた手をゆっくり康祐の背中に廻すと康祐の胸に顔を傾けた。
「いつか、いつかきっと会えると思っていた」
搾り出すような康祐の言葉に和音の顔が崩れた。後から後から涙が零れ落ちる。声を出して泣き始めた和音の髪を撫でながら、康祐の脳裏に和音と暮らした日々が蘇ってきた。こんなにも和音のことが好きだった。誰よりも誰よりも和音を愛している。空白の時間がスリップし、すべての出来事が一瞬で縮まった。
「元気だった?」
和音が泣き止むのを待って静かに話しかけた。
「親父に手紙を見せてもらったんだ」
「うん」
「岡山まで探しに行ったんだけど見つからなかった」
「うん」
「人探しってあんなに大変だとは思わなかった。球場で米粒を探す位困難だった」
「うん」
「三日間足を棒にして歩き回っても見つからなかったのに、まさかこんな所にいたなんてね」
「うん」
「会えてよかった」
もう一度強く抱き締めた。この瞬間に出会うために今日という日を生きて来たような気がする。苦しくて辛くて自分の存在が分からなくなる程もがいて、もう人を愛することなんて出来ないと思っていた。自分の中で和音を愛する気持ちが途切れていなかったことがこんなにも嬉しい。 落ち着きを取り戻した和音が鼻水をすすりながら口を開いた。
「お父さんに手紙を出したすぐ後にね、あさひのオーナーに謝りの電話をしたの。そしたら、またうちで働かないかって言われてさ、嬉しくて戻って来たの。今は本部で営業をやってる」
「そうか良かったよ元気でいてくれて。僕もまた本社に戻ったんだ。今日はこっちに出張でさ、仕事が終わって何となく来てみたんだけど、まさか和音に会えるとは思わなかった」
「康祐はいつだってあたしを見つけてくれるのね」
鼻をぐずぐず言わせながら和音が笑った。
「今日はもう仕事終わったの?」
「うん、康祐はこれから東京に帰るの?」
「和音は今どこに住んでるの?」
「この近くよ、歩いて7、8分のところ」
「一人?」
「当たり前じゃん、何言ってるの」
子供のように笑う和音は、以前の和音だった。
「じゃあ今日は和音の家に泊まる。明日、朝の新幹線で帰ればいいから」
和音がふふんと頷いた。話したいことがいっぱいあった。いっぱいありすぎて何から話せばいいのか分からない。
「腹減ってんだけど、何か食べようか」
康祐がお腹を押さえた。
「昨日カレーを作ったの、まだいっぱい残っているからそれでいいでしょ?卵とパンもあるから朝の分も大丈夫だよ」
「卵って、冷蔵庫とかあるの?」
「あるよ、アウトレットのお店が近くにあってさ、超ミニの冷蔵庫が八千円だったの。テレビもあるしトースターもあるし、あの時よりリッチだよ」
あの時、大阪から岡山に逃げて来た日。テレビもラジオもない静かなアパートで、潮騒の音を聞きながら不安な夜を過ごした。しかし今、二人を脅かすものは何もない。
「毎日、寝るまで何してるの?」
康祐が聞いてきた。
「歌の練習してる」
びっくりして康祐が立ち止まった。
「あはは嘘よ、嘘に決まってるじゃん。音痴だってば」
和音が愉快そうに笑った。笑いながら目を落とした康祐の手首に、母親から贈られたという例の時計が見えた。
「あっそうだ康祐がくれた時計さ、アパートの保証金とか、とうざの生活費に使っちゃった」
「おう良かったじゃん、役に立って」
「でもちょっと寂しい。だってほら、今千円時計をしているのよ」
左手を挙げて自分の腕時計を突き出した。
「カッコいいじゃん。千円だって1千万だって時間の長さは同じなんだからさ」
「それはそうだけど。ねえ康祐さ、その時計そろそろ飽きた頃じゃないの?」
顔を倒して覗き込む和音に、
「駄目だよ、これはあげないよ」
康祐が慌てて腕を引っ込めた。
「ケチ」
膨れて横を向く、その膨れ方も康祐には懐かしかった。
「ほら、あそこの角を曲がってすぐよ」
10メートルほど先の角を指差しながら和音が一歩前に出た時、康祐が和音の腕を掴んで引っ張り寄せた。
「なに?」
「結婚しよう」
「えっ?」
「結婚しよう」
「ん?」
「プロポーズだよ」
「はあっ?」
「はあじゃないよ、結婚しようって言ってるんだ」
和音の目が大きく瞬いた。
「やだ冗談やめてよ、駄目に決まってるじゃん。あの時康祐に説明したでしょ、康祐はちゃんとした家の人と結婚しなくちゃいけないって。それに康祐のお父さんとも約束したの、もう二度と康祐とは会いませんって」
和音のはね付けに、しかし康祐の態度は変わらなかった。
「親父が探しに行けって言ってくれたんだよ。お袋も分かってくれた。何も心配することはない、だから結婚しよう」
「駄目だって、無理、無理、本当に無理だから」
和音は何度も首を左右に振った。
「何で駄目なんだよ、和音を縛るものはもう何もないんだよ。自由なんだ。それとも僕のこともうどうでもよくなった?」
「そうじゃない、今でも康祐のことが一番好き。でも世の中にはルールってものがあるでしょ?ルールを無視して幸せにはなれないのよ」
和音の言葉に康祐が気色ばった。
「ルールって何だよ、好きな人にプロポーズしてはいけないってことかよ」
「そうじゃない、恋愛と結婚は違うってことよ。康祐と結婚するということは康祐の親族に加わるってことなのよ。あたしには親族になる為の品格とか教養とかが備わっていない。あたしと結婚したら康祐は恥を掻くことになる。折角一年かけて軌道修正したんだから余所見しないで真っ直ぐ前を向いて歩いて行きなよ。今夜で最後にしよう。明日になったら今度こそ本当にお別れ、ね」
説教じみた口調の和音を康祐がまじまじと見つめた。
「馬っ鹿じゃないの。品格だの教養だの、いつの時代のどの王国の話してんのさ。僕は王子様でも若殿様でもないんだ。最初から和音に淑女なんか求めていないよ。有りのままの和音が好きだから和音といると心地いいから、この先もずっと和音と一緒にいたいから、だから結婚しようと言ってるんだ。親戚のことなんかどうでもいい、何を言われようが気にしない。僕を信じて付いて来てくれって」
理不尽な別れ方をしたあの日から、和音を守り切れなかった非力さをずっと後悔していた。もう二度と同じような思いはしたくない。今度こそ何があっても和音を守りたかった。康祐の説得に、しかし和音はヒステリックな声を上げた。
「あたしだって康祐と結婚したいって思ってたよ。でも無理なんだって。そんなこと口に出してはいけないんだって。本当はあたし打たれ強くなんかない、強がっているだけ。いつもいつも誰かに頼りたくて、でも頼る人がいなくてどんどん卑屈になって、こんな存在感のない女が一人前に恋をして分不相応な結婚をしたいなんて、何を寝ぼけたことを言っているんだって、誰だってそう思うよ。今だってそう、康祐がこんなにやさしくしてくれているのに怖くて素直になれない。あたしに幸せは似合わないんだって!」
支離滅裂で気が滅入りそうな和音の自論だった。そんな和音を見て康祐がニヤリと笑った。
「和音の欠点がまた一つ分かった。へ理屈が多く悲劇のヒロインになりたがる。でも駄目、すべて却下。そんなへ理屈より僕の理論の方が勝ってる」
両腕を腰に当て、顎をしゃくって見せた。
「品がなくて性格も雑、料理も上手くないし年も喰ってる。そんな女のどこがいいのかって聞かれたら、ただひとつ好きだからとしか答えようがない。世界中が敵に回ったとしても和音が僕を思ってくれればそれでいい。ごちゃごちゃうんちく垂れてないで結婚しますって言えばいいんだよ」
「分かった?」
「OK?」
「OKだよな?」
「きっと幸せにするからさ」
ゆっくり包み込むように和音を抱き寄せた。
「ありがとう康祐」
はにかんだ和音が力いっぱい抱きついた。
「よし、じゃあ早く帰ってカレーを食べよう。腹減って死にそうだよ」
腕を組みながら歩く二人の影が街灯の光に重なって伸びていた。長く苦しかった和音の旅が終わろうとしている。新しい人生に向かって今、和音は一人ではない。
「あのさ、ひとつ言っていい?」
「なに?」
「さっきのさ、世界中が敵に回ってもとか言うフレーズさ、ちょっと古臭いんじゃない?臭ってきた」
康祐がむっとした。
「でも臭いものほど美味しいっていうじゃん、あたし臭いもの大好きだよ」
和音が康祐を見上げた。
完
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