失意  
   そして、災いは突然やってきた。残業を終えてアパートに帰って来ると玄関前が騒がしい。警官の姿も見える。隣のおばさんが和音を見るなり大声で走り寄って来た。
「和音ちゃん大変だよ、管理人がアパート中の鍵を開けて手当たり次第お金を盗んで行ったんだよあんたも盗られてないか調べて見な」
 おばさんの言葉に部屋に駆け込み愕然となった。引き出しという引き出しが全部開けられていて前日に下ろしたばかりの現金と奥に入れてあった通帳と印鑑もなくなっていた。
「どう?」
 おばさんが玄関から顔を覗かせた。
「ない、お金も通帳も」
 呆然としている和音のそばに来ておばさんはため息を付いた。
「やっぱりあんたもやられちゃったんだ。あの親父、用もないのにしょっちゅう廊下をうろうろしているから、おかしいと思ってたんだ。私ね、こんな事もあろうかと、いつも現金と通帳は持ち歩いていたのよ。だから盗られたものはないんだけどさ、今聞いただけで アパートの半分くらいが被害に遭ってるらしいよ」
 一旦出て行ったおばさんが、10分程して警官を連れて戻って来た。
「宮崎さんですね、被害額を教えて頂けますか?」
 警官が手帳を広げた。
「現金が3万と預金通帳です」
「通帳には幾ら入っていましたか?」
「1千万です」
「1千万?」
 警官が驚いて和音を見た。
「印鑑も一緒になくなっているんですか?」
「はい」
「他になくなっている物はありませんか」
 警官の言葉に部屋を見回した。
「現金と通帳だけです」
「分かりました、銀行の方にはすぐに連絡を入れておいて下さい。全力を挙げて捜査はしますが、今後は通帳と印鑑は別の場所に置いておかれた方がいいと思います」
 警官の言葉に崖から突き落とされた気がした。外からの侵入ではなく管理人の犯行とは。日本国中で日常茶飯事に起きている窃盗事件。自分が被害に遭うなんて思っても見なかった。爪に火を灯す思いで貯めた大事なお金。こんなにも簡単に失くしてしまうなんて。
 考えれば考える程悔しさが増幅した。真面目にこつこつお金を貯めていた自分が馬鹿に思えた。あまりのショックに泣くことさえ出来ない。廊下からは住人が集まって夜遅くまでぼそぼそ喋り合っている声が聞こえていた。
 仕事などする気になれなかった。無断欠勤を繰り返し、会社からの再三の忠告も無視し、挙句解雇を言い渡されてしまった。部屋にこもってからは見もしないテレビのチャンネルをパチパチと無意味に変えるだけの日々が続いた。生きて行くことの虚しさ残酷さを思い知らされた。とんだ災難だったと潔く諦めることが再生への近道だと、頭では理解出来ても人生の授業料にしてはあまりにも高い金額だった。
「生きるってなんだろうね」
 声に出してつぶやいた。失望と脱力感が体中を支配し、生きることの意味を見失っていた。 解雇後もだらだらと何もしない日が続いき、その間、何回か警察から連絡があったものの、犯人逮捕には至らなかった。残っているお金を数えながらこのまま餓死してしまえばいいと思った。自分が死んでも泣いてくれる者なんかいない。人に発見されないままミイラになってやる。怠惰な生活にうそぶいては日々死ぬことばかりを考えていた。
 しかしながら、人は簡単に死ねるものではなく餓死するには相当の根性がいった。首筋にカミソリを当ててみても動脈を断ち切る勇気がない。ビルの屋上から下を覗いても、足が震えて最後の一歩が踏み出せなかった。自ら命を絶つということは想像以上に難かしいものだと思い知らされた。
 不合理だと口を尖らせても生きるためには働かなくてはならない。それからは職を転々とする日が続いた。駅のビラ配り、スーパーの店員、パチンコ店のカフェサービス、キャパクラ嬢、テレフォンオペレーター、何をやっても続かなかった。
 目標を失い、だらだらと転職を繰り返す日々が続いたある日、道端で茶色いセカンドバッグを拾った。交番に届けるのも面倒でそのまま持ち歩いていると、バッグの中から携帯の着信音が聞こえた。何度も鳴るので出てみると落とし主からであった。大声でがなって来る。居場所を告げると10分も経たない内に落とし主が飛んで来た。40前後の少し見てくれのいい男。顔から汗が吹き出ていた。バッグを受け取り中身が無事であることを確認すると男の顔がはじけた。
「ああっ良かった、有難うございます。助かりました。もう駄目かと思いました。集金したばかりの手形と小切手が入っていたんです。本当に本当に有難うございました」
 何度も男は頭を下げた。和音はそんな男の後頭部をだるそうに見ていた。別にそんな大層な事をしたとは思っていない。中に何が入っていようが関係ないし、男の都合なんか知ったことではなかった。尚も喋り続ける男を無視して歩き出すと、
「ちょっと待ってください」
 男が慌てて呼び止めた。
「これで食事でもして下さい」
 背広のポケットから財布を取り出すと、和音の手に一万円札を押し込んできた。
「いいです、そんな」
 びっくりして手を引くと、
「気持ちです、気持ちです。本当に助かったので、どうか受け取ってください」
 無理に札を握らせ、男は来た道を引き返して行った。この男が時沢であった。二度目に時沢と出会ったのは和音が働いている喫茶店であった。注文を取りに来た和音を見て時沢がびっくりして立ち上がった。
「どうも、この間は本当に有難うございました。お蔭様で命拾いさせて頂きました」
 あの時と同じように何度も頭を下げた。
「本当に一時はどうなることかと思いましたよ。二時間近くも同じ道をうろうろしながら生きた心地がしませんでした。地獄で仏というか、貴女が女神様に見えました。本当に感謝しています」
 興奮気味に話す時沢が年より若く見えた。その日からたびたび店に現れ、やがて時沢の方から食事を誘ってくるようになった。異性と付き合うこともなく、ひたすら働き続けてきた和音にとって時沢の存在はあまりにも新鮮だった。
 人の優しさに飢えていた和音は急激に時沢に傾いて行き、時沢が妻帯者である事など何の障害にもならなかった。自分の存在が彼の妻にばれて会えなくなることの方が心配で、だからホテルで時を過ごし夜遅く家庭に戻って行く時沢を強引に引き止めたことは一度もなかった。不倫をしている男に無理を強いてはならない。今までの孤独の生活に比べたら一緒に食事が出来る相手が現れただけで充分であった。自分以外の人間のことを思って生きることの喜びを知り、そしてその喜びは単純に続くものだと思っていた。
 しかし、出会いから一年、和音の思いを嘲笑うように時は寸断された。事業の失敗が時沢を変えてしまった。信頼していた仲間に裏切られ、無一文で和音のアパートに転がり込んで来た時沢は別人のようになっていた。物事を歪んだ状態でしか見られなくなり、周りの者全てが敵だと言い放った。猜疑心に駆られた目は冷たく凍りつき、何をしても思い通りに行かないもどかしさから、理解者であるはずの和音にまで暴力を振るうようになってしまった。
 そんな状態の中でも孤独との共存よりはいいと和音は思っていた。濁った生活の中にあって時折見せる時沢の優しさは典型的なDVと呼ばれるものであったにも拘わらず、
「もう二度と暴力は振るわない。お前がいないと駄目なんだ」
 時沢のその一言でそれまでの行為を許せてしまう自分がいた。乾ききった植木鉢の中で枯れまいと必死に生き続ける草花と、気まぐれで注ぎ込まれる水のような関係。その残酷さに気が付きながらも別れを切り出すことが出来ない自分がいた。別れた後に襲い来る孤独が怖かった。ひと時でも寂しさを忘れさせてくれる時沢の存在が、その時の和音にとってはイコール愛だったのだ。
 事件から三年、再び孤独の日々を送っていた和音の前に康祐が現れた。康祐の優しさは時沢とは違っていた。構えなくていい、力を入れなくていい、自分を殺さなくていい、すべてが自然体でいられた。誰のために何のために生きているのか、恵まれない境遇を恨みながら生きて来た和音に、康祐は自分が自分であることの存在感を認識させてくれた。
 何気ない康祐の優しさに触れる度に素直になれる自分がいた。尖っていた神経の角が取れ、心の奥深く浸潤していた傷が癒されて行く。康祐の温もりは心地良く、傍にいるだけで豊かな気持ちになれた。 固く縮んでいた心の塊が溶け、いつしか康祐を愛していると確信した時、和音の中でくすぶっていた時沢への思いは跡形もなく消え去っていた。