後悔  
   一ヶ月はすぐにやって来た。約束の日、店の近くの喫茶店で京子は待っていた。ドアを開けて入ってきた康祐に京子は立ち上がって手を振った。
「来てくれないかと心配しちゃった」
 安心した表情の京子に、
「約束だから」
 康祐が無愛想に答えた。
「出ましょうか」
 喫茶店を出て御堂筋を歩いた。
「時間があったからこの辺りをちょっと散策してたの。そしたらこの先にね、感じのいいカフェレストランがあったんだけどどうかな?」
「いいよ」
「来る途中の新幹線でね、子供が追いかけ合いしてうるさかったの。そしたら斜め前の人が足をつき出して、すごい勢いで転んじゃったの。泣きながら親のところへ帰ってやっと静かになったんだけど、ちょっとすっとしちゃった」
「へえ」
「仕事忙しいですか?」
「まあまあってとこかな」
「大阪の人ってやっぱり値切ったりするんですか?」
「いや、僕は一度も値切られたことはない」
「ですよね、装飾品を値切るのはナンセンスですものね」
 レストランに入ってからも食事中も、店を出てからも、別れる間際まで京子は喋り続けていた。
タクシー乗り場で順番を待っている時、京子が持っていた紙袋から包みを取り出した。
「あの、これトレーナーなんですけど、菱木さんに似合うかなと思って買ってきたんです。どうぞ受け取ってください」
 びっくりした康祐が、
「いや、いいよ、そんな、貰う理由ないから」
 右手で制し、二、三歩後ろへ下がった。
「高いものじゃないんです、気に入らなかったら処分して下さい」
 無理やり康祐の腕の中に押し込んできた。仕方なく受け取ったもののいい気がしない。康祐が受け取ったことで安心したのか京子に笑みがこぼれた。
「じゃあまた来月、忘れないで下さいね」
 念を押すように言い、京子はタクシーに乗り込んだ。後味の悪いひと時だった。来月も再来月もこれからもずっとこの状態が続くのかと思うとやりきれない。和音に隠し事をしなければならないのも苦痛であった。京子から渡された包みをゴミ箱に突っ込むと、最寄りの地下鉄に向かって歩き出した。 マンションに帰って風呂から出るとメールが入っていた。
〔今日クロちゃんが彼女を連れて来ました。茶トラちゃんです。小さくて超可愛い〕
 クロの横でえさを食べている茶トラの写真が添付してあった。
〔彼女かな?もしかしたら子供?〕
 次の日。
〔クロちゃん今日は一人でした。残念〕
〔また連れてくるかも知れないよ〕
 そして次の日。
〔クロちゃん今日も一人でした。茶トラちゃんは行きずりの人だったのかなあ〕
〔色々あるよ猫の世界も〕
 たった二、三行のメールが楽しかった。

  桜の季節になり、和音とはごく普通の恋人同士の関係が続いていた。いつからかお互いを「さん」付けではなく、名前を呼び捨てにするようになっていた。和音はいつも元気で、町なかでも女子中学生のように大きな声で笑い、制服姿の警官に出会っても下を向くこともなくなっていた。しかし、康祐は和音が日を追うごとに無防備になって行くのが不安でもあった。
 一ヶ月は早い。京子との約束の日はすぐにやって来た。たった一ヶ月の間に京子の態度が変わっていた。
「まだ早いし、もうちょっと付き合って下さい」
 食事が終わるとタイミングを計ったように飲みに誘って来た。店を出た京子はさも通いなれた道のごとく康祐の前を歩き、暫くして大きな提灯がぶら下がっている店の前で立ち止まった。京子に付いて入ると中は純和風の創りになっていて、奥の方から雅楽の音色が聞こえてきた。
「ここって、よく来る店なの?」
 康祐が尋ねると、
「ううん初めてよ、ネットで調べたの。情報誌にも度々この店のことが紹介されていて、前から一度行ってみたいって思っていたの。やっと来れてよかった」
 棚に並べられた様々な酎の瓶に目をやりながら、京子が満足そうに微笑んだ。
「写真で見たとおりの感じのいいお店、これからもここに来たいな。ねえ菱木さん、クオリティーの高いお店だと思いません?」
 正直な感想を言ったのか、意識して康祐を牽制してきたのか、いずれにせよ京子の言い方に不快なものを感じた。 店の心地よい雰囲気も手伝ってか、京子の飲むペースは驚く程速かった。 もう少しゆっくり飲んだ方がいいんじゃないかと気を遣った康祐の言葉にも耳を貸さず、
「辛気臭いこと言わないでくださいよ、こんな楽しい夜なのに、菱木さんももっと飲みなさいよ」
 酒の瓶を持って、向き合った席から康祐の隣に移動してきた。酒が進むにつれ京子の舌が滑らかになり、自分のこと家族のこと自分を取り巻くすべての人々のこと、康祐にとって何の興味もない話を延々と喋り続けた。適当に相槌を打って聞き流してはいるものの、それよりオーバーな仕草で肩にもたれかかったり腕を掴まれたりするのが嫌で、どのタイミングで切り上げようかと、そのことばかり考えていた。
「実を言うと姉にね、子供が起きるから11時以降には来ないでくれって言われてるの。今まで散々遊びに来いって言っておきながら、この前なんか10分遅く行っただけで文句言うのよ。別にぎゃあぎゃあ騒ぐわけでもないのにさ。でね、今から行くとまた文句を言われるから、場所を変えて朝まで付き合ってくれない?」
 ラストオーダーを取りに来た店員が離れてから、康祐の耳元に囁いて来た。時計を見るとすでに11時を過ぎていて、無神経な京子の言動に怒りを覚えた。
「帰ろう」
 酔っている京子を無理やり立たせ、店の外に連れ出した。待機中のタクシーに押し込んでその場を凌ぐものの、これから先の事を思うとやりきれない。成行きとはいえ簡単に京子の要求を受け入れてしまったことを後悔していた。
 京子の目的が自分との結婚であるとは思わない。だが、ただの遊びでないことも確かだ。京子の手中にあるカードをこれ以上切らせることなく、元の常態に戻すにはどうすればいいのか。適切な考えが思いつかず、頭を抱えてしまった。

「菱木君ちょっといい?」
 休憩室で斉藤香織が声を掛けて来た。
「何か心配事でもある?」
 斜め前から顔を覗き込まれた。
「えっ、あ、いえ」
 香織を前にうろたえてしまう。
「時々ぼーっとした顔をしているよ」
 仕事の悩みならともかく恋愛のトラブルなど上司に話せることではない。目のやり場に困って下を向いてしまった。
「誰だって悩みの一つや二つあるんだから、いちいち人に言う必要なんてないんだけどさ、菱木君は微妙な立場にいる人だから些細なことで悩んでいるとこの先大変だと思うの。もし私に何か出来る事があれば言って欲しいって思ってるんだけどね」
 テーブルを挟んだ向かいの椅子に座りながら、康祐の父のことを話し出した。
「私ね、社長には心から感謝しているの」
 営業から庶務に移っての三年間、雑用に追われる日々が続いていた。宝石の営業がやりたくてソシエールに入ったのに明けても暮れても雑用の繰り返しで、この会社にいる意味をなくしていた。今日こそ辞表を出そう。そう思って会社に行くが、いざとなると出す勇気が出ない。惰性でだらだらした日々を送っていた時に町で社長に会った。食事に誘われてびっくりしている香織に「辞めたいオーラがいっぱい出ているぞ」と言われた。
「レストランで社長に言われたの。君の事は絶対に無視しない、君の力を必要とする時が必ず来るからもう少し頑張ってくれないかって」
 その時のことを思い出して香織は嬉しそうな顔をした。思っても見ない社長のその一言で胸に痞えていたものが下りた。人間はちょっとした事で傷付いたりするが、ちょっとした一言で救われたりする。社長が自分を見てくれていた、それだけで香織は自分の存在を認識することが出来た。
「どうしたらいいのか分からない時って誰かに寄りかかりたくなるじゃない?私はまだ誰かに寄りかかられる程大きくはないけど、聞いてあげることぐらいは出来る。誰かに聞いてもらうだけで気持ちが落ち着くことってあるでしょ?菱木君、この頃見る度にため息付いているから、ちょっと気になってね。上司って立場じゃなくて、人生の先輩として何か言って上げられる事があるかも知れないと思って」
 穏やかな口調だった。沈んでいた心がふっと浮き上がる。思い切って相談してみようかと一瞬心が動いたが、やはり言えなかった。それにしても香織にそんな悩みがあったなんて思いも寄らなかった。強力なバネを持ち、鋼鉄のように頑丈な人だと思っていた。康祐を気にかけてくれる細やかで女性らしい心遣いに驚いた。
「すみません余計な気を遣わせてしまって、その時はよろしくお願いします」
 立ち上がって頭を下げた。
「私、この会社に骨を埋めるつもりだから、こちらこそよろしくね」
 香織から美しい笑顔が返って来た。