父のこと  
   その日の夜、康祐が家に帰ると両親が向かい合って食事をしていた。
「ご飯食べる?」
 立ち上がろうとする母に、
「いい、食べてきたから」
 右手で制し、そのまま階段に足を向けた。
「おい康祐、ちょっといいか」
 後ろから、父の忠雄が声を掛けてきた。
「今日部長から話を聞いたろ?」
「ああ」
「やっていけそうか?」
「分からない。でも頑張れる気はする」
 答えながら父の傍に歩いた。
「地図を見たか?いい場所だろ?あの店は苦労して見つけたんだ。立地条件も店舗面積も思い通りで構想から3年かかった。内装も一流デザイナーによるものでシンプルかつゴージャスに、何よりも顧客の満足感を第一に考えて万全の体制で挑んでいる。本来なら既成の店の店長を責任者に抜擢すべきなんだが、店舗経験のない斉藤君を責任者に置いたのは今までと違った全く新しい空気で出発したかったからなんだ。周りは反対したが強引に押し切った。彼女ならきっとやってくれる、俺は信じているんだ」
 父は空のグラスを康祐の前に付き出した。受け取ったグラスにビールが注がれ、康祐はそれを一気に飲み干した。
「俺が親父の後を引き継いだ時は4店舗だった。今度の店で10店目だがこれが俺の最後の大仕事だと思っている。この不況の中、正直不安が先に立つ。しかし不況だからこそ成功させたい。成功して少しでもいい状態でお前に渡したい。後は事業を拡大するなり、反対に成績の上がらない店を閉鎖して確実な収益方法を取るもよし、お前の自由にすればいい。ただ俺が生きているうちはソシエールの名前は潰さないで欲しい、それだけだ」
 父が康祐に仕事の話をするのは初めてだった。会社に席を置く時も無理には勧めなかった。5年でも6年でも他所の会社の飯を食べてからでいいと言っていた。後継者としてのプレッシャーで生活そのものが萎縮してしまうのを恐れたからだ。常にプレッシャーの中にいた自分と同じ思いをさせたくないと思っていた。

 物心ついた時から歩く道を決められていた。友だちがお医者さんになりたい、野球選手になりたい、パイロットになりたいと様々な夢を語る中、忠雄少年は誰に聞かれても「父の会社を継ぐ」と答えていた。他の何かに興味を持つことは許されないと思っていた。
 大学を出てからは当然の如く父の会社に身を置いた。創設者である父の期待が大きければ大きい程その重圧に押し潰されそうになる。毎日がプレッシャーとの戦いだった。立ち止まることもなく振り返ることもなく、前だけを見て走り続けた。
 学生の時も会社に身を置いてからも恋愛らしい恋愛をすることもなく、母の久美とは初めての恋愛で結ばれた。しかし結婚後も家にいることはなく、一日の殆んどを会社で過ごしていた。
 家庭を作ろうとしない夫に失望し、結婚から一年後に久美は実家に戻った。しかし忠雄は迎えに行かなかった。むしろ自由になったと思った。仕事のこと以外で時間を費やされるのが嫌だった。
 久美が家を出てしばらくして離婚届の用紙が送られてきた。久美の名前が書かれ判が押してあった。腹が立ち、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
「離婚用紙を突きつける前に、先ず話し合いだろう」
 忠雄は電話口で怒鳴った。それきり連絡がないまま久美は帰ってこなかった。
 ある日のこと、風邪を引いたのか寒気がして熱もありそうだったので薬局に寄った。薬を買って出てきた向かいの道路に久美が立っていた。懐かしさを覚え名前を呼ぼうと手を上げた時、店の中から長身の男性が出てきた。久美に何やら紙切れを見せている。覗き込んだ久美と何やら会話をした後、二人で大笑いした。忠雄は呆然となった。久美の笑い顔は久しく見たことがなかった。あんなふうにして笑っていたのか。ショックで体が固まった。
 風邪は思ったよりひどく入社10年目にして初めて会社を休んだ。頭が痛くて熱も下がらない。何か食べなくてはと冷蔵庫の中を覗き込むがそれらしきものは何も入っていない。眠りたいのに神経が昂ぶり、眠ることも出来なかった。熱のある頭に久美と初めて出会った時のことが思い出された。
 新作発表のパーティー会場で、取引先の社長から久美を紹介された。衝撃が忠雄の体を突き抜けた。一目惚れという言葉の意味を初めて知った。忠雄にとって久美の存在はあまりにも眩しく、自分でも信じられない強引さで久美に近付いて行った。この時ばかりは仕事のことも忘れひたすら久美に集中する毎日であった。忠雄の熱心さに比例するように久美の心も傾いて行き、周りの後押しもあって一年後には教会で式を挙げていた。欲しいと願ったものを手に入れた喜びで忠雄の心は有頂天であった。自分程の幸せ者はいないと思っていた。
 それなのに、幸せで楽しいはずの新婚生活だったのに、久美を手元に引き寄せたとたん、忘れていた仕事への存念が頭をもたげて来たのである。恋愛にうつつを抜かし仕事をなおざりにしていた自分が情けなく思えた。久美の愛情を感じれば感じる程後ずさりをするようになっていった。
 四六時中仕事に浸っていなければ不安で、意識して久美が入って来れない線を引いてしまった。父が築いた城を壊す恐怖が頭の中を占領し、どうすれば仕事と家庭を共存させられるのか分からなかった。
 家で仕事をしている時に話しかけてくる妻をうっとおしいと思い始め、会社にかかってくる緊急でもない電話に至っては我慢がならなかった。
 帰りの時間が不規則になり、日付が変わってからの帰宅も珍しくなくなった。いつ帰るともわからない夫を待って妻は待ちくたびれて眠りにつく。次の日の朝には前日の夕食が食べられることなくゴミ箱に投げ入れられた。何を言っても「仕事だから」の夫に妻は不満を募らせ、忠雄は忠雄で久美の不満気な顔を見るのが嫌で無理に帰らない日もあった。
 二人しかいない家の中で会話のない日々が続き、一年後の結婚記念日も覚えてない夫に見切りをつけて久美は家を出た。忠雄に反省はなかった。家庭を守ることの出来ない女など必要がないと思った。久美が出て行っても何の不自由も感じなかったし、むしろ時間に束縛されることなく好き勝手に動けることに快感さえ覚えていた。

  の、はずであった。なのに、数ヶ月振りに久美に会って胸が騒いだのは何故なのか。後ろから頭を叩かれる衝撃を感じたのは何なのか。一緒にいた男は誰だ。久美にあんな笑顔を出させる男。今まで感じたことのない嫉妬という言葉が目の前にぶら下がった。
 アルバムを開き飛び込んできたのは、異国の新婚旅行先で地元の子供たちとおどけている久美の笑顔。久美と写っている自分の顔も笑っていた。整理された写真の下に久美の書いたコメントがあった。写真とコメントを見比べながら、大切なものを失いかけている自分に気付き愕然となった。 無性に久美の声が聞きたくなってダイヤルを回した。
「お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません」
 事務的なメッセージの繰り返しで何度掛けても繋がらなかった。番号を変えられているのか。久美が途方もなく遠くに行った気がした。久美に会いたい。こんなにも久美を求めていた。失ってからしか分からない大切なものの価値。もう取り戻すことは出来ないのだろうか。
 ふらふらする体で服を着替え家を飛び出た。通りでタクシーを拾い、倒れるようにシートにもたれる。久美の実家までのたった30分が途轍もなく長く思えた。震える手でチャイムを押すと、
「はい」
 インターホンから久美の声が聞こえた。
「忠雄です」
 だが応答がない。
「話があるんだ、開けてくれないか」
 受話器の置く音が聞こえ、玄関のドアが開くのを待った。しかし、いくら待ってもドアは開かなかった。再度インターホンを押すが、もう誰も出ない。忠雄は立ち尽くした。どうすればいいのだろう。久美は本当に手の届かない所に行ってしまったのだろうか。
 出る時に小降りだった雨が本降りになっていた。いつまで経っても開かないドアに諦めて歩き出そうとした時、家の前に白い乗用車が止まった。クラクションが短く鳴らされ、それを合図にドアの開く音がした。庭越しに傘を差した久美が現れ、ゆっくりと門に向かって近付いて来る。傘を畳んで助手席に乗り込もうとした久美が、ふと人影に気付いて振り返った。全身ずぶ濡れの男、顔色がない。
「忠雄さん!」
 とっくに帰ったと思っていたのか、立ちすくむ久美に、運転席の男性が後を振り返った。喫茶店の前で見た男。
「どうしたの?」
 男性の問いかけに、
「何でもない」
 忠雄を無視して久美は助手席に乗り込んだ。ドアが閉まり、車は去って行った。忠雄の耳の奥で自業自得という言葉がこだました。
 どこをどう歩いたのか分からない。気がついた時は病院のベッドで点滴をぶら下げていた。弱った体に雨は冷たかった。呼吸困難に陥り高熱にうなされ、一時は命さえ危ぶまれた。24時間ぶりに意識が戻った忠雄の目に映ったのは自分を覗き込んでいる久美の顔だった。
「良かった気がついたのね。すぐに先生に来てもらうから」
 枕もとのブザーを押し、忠雄が目を覚ましたことを告げた。ほどなく現れた担当医は一通りの診察の後、
「もう大丈夫です、峠は越えました。あとはよく食べて体力の回復に努めてください。このまま熱が出なければ三日後には退院出来ますから」
 要点だけを言って戻っていった。
「もうほんとに人騒がせなんだから」
 布団を掛け直しながら、久美が口を尖らせた。
「俺どうしたの?君は何でここにいるの?」
 今の自分の状況がよく分からなかった。
「家の近くの道端で倒れていたのよ、救急車で運ばれて丸一日意識が無かったんだから」
 そういえば久美の家の前で久美を見送ってからの記憶がない。
「お義母さんから電話があったの、忠雄が死にそうだからすぐに来て欲しいって。死にそうって言われて、ほっておく訳にいかないでしょ」
「死にそう?俺が?」
「そう」
「風邪引いただけだよ」
「雨に打たれて肺炎を起こしかけていたんですって」
「肺炎?」
「あんな形で死なれたら気持ちが悪いでしょ、自分のせいで死んだって思っちゃうじゃない。夢に出てきちゃうわよ。何で連絡もなしに来たの?急に来られてもこっちだって戸惑うでしょ」
「電話したんだ、でも通じなかった」
「何で、番号変わってないわよ、掛け間違ってたんじゃないの」
「何回もしたんだ、でも出なかった」
「ボーッとした頭で違う番号を回していたのよ」
 そうかも知れない。当時の電話に記憶機能はなかった。すべて掛け間違っていたのだろう。今までなら引かなかった。自分の言動はすべて正しいと言い切って来た。譲るということは自分を否定することだと思っていた。しかし、今は素直に久美が正しいと思える。
「あのさあ」
「うん?」
「俺、会社辞める」
 久美がびっくりして林檎をむく手を止めた。
「今のまま、この仕事を続けていたら自分の存在がわからなくなる。小さい頃から親父の跡取りを義務付けられて会社を継ぐことだけを目標に頑張ってきた。宝石に関して誰に何を聞かれても即座に答えられる知識が欲しかった。親父はそんな俺の努力を認めてくれた。親父に褒めて貰いたい一心で能力以上に頑張った。親父のようになりたい、親父を越えたい、ずっとそう思っていた。親父以外何も見えなかった。ファザーコンプレックスって言うやつかな。お前が苦しんでいるのが分かっていながら、わざと目をそむけてお前の言うことを聞こうとしなかった。煩わしいことに時間を費やされたくなかったんだ」
 起き上がろうとして右手で毛布をずらした。しかし久美に両肩を抑えられて、そのまま体を戻した。久美の顔をまともに見ることが出来ない。力なく天井を見上げると大きなため息を漏らした。
「お前が家を出て行った時は正直言ってほっとした。これで思いきり仕事に打ち込める、そう思った。それなのに道路の向こうでお前を見た時、懐かしさで胸が震えた。遠い昔に失くした大事な物を見つけた気がしたんだ。声を掛けようとしたら背の高い男が出てきて一緒にどこかへ行ってしまった。ショックだった。家に帰ってからもその光景が頭から離れなかった。でも今やっと分かったんだ、俺にはお前が必要だってこと。お前を失いたくない。お前が許してくれるならもう一度知り合った頃に戻りたい。そして新しい仕事を見つけて一から出直したい。本気でそう思う」
 興奮気味ではあったが、久美への思いを忠実に伝えた。しかし、
「何言ってるの、会社を辞めるなんて出来るはずないでしょ。それに私の為に会社を辞めるなんて嫌だわ」
 久美が咎めた。
「後継者の重圧に耐えられない。どこでどう力を抜けばいいのか分からない。仕事と家庭を両立させられない。不器用なんだ」
「確かにね」
 泣き出しそうな忠雄に久美は苦笑した。
「でも辞める必要はないわ、今辞めたら頑張って身につけた知識を捨てることになるじゃない。走る速度を落とせばいいのよ。適当って大事よ。とりあえず休日は会社に出ない、定時に帰宅する、仕事は家に持ち込まない、簡単なことでしょ」
 簡単だろうか、それが出来ないから悩んでいる。
「無理なのよねえ貴方には、でもそれが出来なければどこの会社に勤めても同じことよ」
「じゃあさ、定時には帰れないかもしれないけど休日は出ない、仕事は家に持って帰らない、それならいいかな?」
 自分なりに出来そうなことを考えてみた。
「ほんと?」
「ほんと」
「ファザーコンプレックスはどうするの?」
「親父なんか怖くないって、毎日唱える」
「馬鹿じゃないの、お父さんを尊敬するあまり、そのコピーになろうと思うから辛いのよ。お父さんはお父さん、自分は自分って割り切って、自分のスタイルを貫くことが最大のポイントじゃないの。自分に自信が出来たら何に対しても怖くなくなるはずよ」
「自分のスタイル」
「そう、自分流のやり方。偉大な父親の戦術も時と共に古くなっていくと思うし、基礎は基礎として受け継いで、あとは自分の描いた設計図を組み立てて行けばいいじゃない」
 久美の言う通りだと思った。的を得ていると思った。いくら頑張っても父のようにいかないのは自分が未熟だからだと思っていた。背負わなくていい重圧感を自分自身が作り出していた。
 結婚前も結婚してからも久美に仕事の話をしたことはなかった。面倒臭かった。聞く耳を持たなかった。こんなにも自分を分かってくれる久美の存在が、今はとても眩しい。
 久美のむいてくれた林檎をかじると、甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。その甘酸っぱさが今の自分を象徴しているように思えた。
「今までごめん、本当に悪かったと思ってる」
 久美に一番言いたかったことが素直に言えた。
「仕事より大事なものがある事にやっと気が付いた。仕事に魂を取られるところだった。これからは自分勝手に歩かない、約束するよ」
 今日が本当のプロポーズだと思った。改めて久美を愛しいと思う。
「私もね、勢いで家を出ちゃって勢いで離婚届なんか送りつけて反省してる。離婚するもしないも納得するまで話し合ってからよね。でもさすがにインターホンからあなたの声が聞こえた時はびっくりしちゃった。それにあの雨の中、傘もささずに突っ立ってるなんて、どうしていいのか分からなくて無視しちゃったけど、あの後すごく気になってた。だって真っ青な顔で幽霊のようだったのよ」
 久美の瞳が大きくなった。久美と話せることがこんなにも楽しい。久美を迎えに来た男性のことが気になり、聞こうか聞くまいか迷ったが、
「あのさ、迎えに来た男の人なんだけど、どういう人?」
 勇気を出して聞いてみた。久美はえっという顔をして、
「ああ、あの人」
 ふふふと笑った。
「友だちの旦那さんよ。赤ちゃんが生まれてね、もうすぐ退院だから見せてもらいに行ったの。あの時会ってたのは、プレゼントのベビーベッドを買いに行った帰りよ」
 胸のつかえが下りた。久美が交際している相手ではなかったのだ。これ以上聞くことはない。安心したとたんに力が抜けた。
 回復は順調で予定通り三日後に退院し、久美も一緒に家に戻った。少しの休養の後、一週間ぶりに出社した忠雄がまさかの定時に帰って来て、久美は一瞬あっけにとられた。
 夕食を食べながら忠雄はよく喋った。こんなに喋る人だったのかと驚き、久美もよく笑った。
 以後、さすがに定時に帰ることはなかったが、会話は増え休日には二人で出かけることが多くなった。正月休みには旅行にも出かけ、康祐や妹の沙智が生まれてからもその距離間が変わることはなかった。
 康祐は目の前で父と母が喧嘩をするのを見たことがない。適当に母の手のひらで転がっている父を見て、結婚したら自分もあんな風な亭主になるのかなと思う。両親に離婚の危機があったことなど思いも寄らないことであった。

 父はワインを飲み始めた。康祐のグラスにもワインが注がれた。
「周りから色んな重圧がかかると思うが、お前の思った通りにすればいい。仕事は勿論大事だし侮るべきものではない。特に幹部との確執は悩みの種だ。しかし、うろたえなくていい。経験を積んできた彼らの意見は貴重だからな。努力は受け入れて存在を認めてやることだ。これは違うと思っても頭から否定してはいけない。やる気を萎えさせる言動は次のアイデアに繋がらない。常に一歩下がって全体を見渡すことが大切なんだ。焦る事はない、自分のペースで頑張ればいいんだ。目を血走らせてガツガツしていたら自分を見失ってしまう。仕事に人生を取られてはいけない。適当に頑張ればそれでいい。愛する人が出来たら二人で人生を楽しめ、俺の教訓だ」
 父が母を見た。黙って横で聞いていた母がにっと笑った。父は康祐が帰宅する前から飲んでいたらしく、やがてソファにもたれると眠ってしまった。
「あらあら、こんなところで寝たら風邪引くわよ」
 母の言葉に反応を示さず寝息すら立てている。
「ベッドまで運んで行こうか?」
 康祐が手を出しかけると、
「いい、掛ける物を持ってくるから。明日は昼頃出て行くって言ってたし」
 母は寝室に向かった。白くなった父の頭に年輪を感じ、決して平坦ではなかったであろう道のりを思った。康祐が感じていたプレッシャーを父は感じなくていいと言った。康祐のプレッシャーは父のプレッシャーであるのかも知れない。
「頑張るからね」
寝ている父に声を掛け、自分の部屋に向かった。