| 暫くして康祐は大阪に居を移した。小沢と斉藤香織は先に来ていて、小沢は取りあえず単身の形から時期を見て家族を呼び寄せるということになった。
康祐が大阪に着いた日の昼過ぎ、三人で香織のマンションに集まった。
「内装は殆ど出来上がっているんだけど、あの広い空間に商品が並ぶのを想像すると体が震えてきちゃうのよ。あれこれ考え出すと夜も寝つかれなくてね。ここんとこ胃の調子も良くなくって、どこかに逃げ出したくなっちゃうのよ」
威風堂々の女戦士だと思っていた香織の言葉に、小沢と康祐がびっくりして顔を見合わせた。
「何言ってんですか斉藤さん。斉藤さんから聞く言葉とは思えないですよ。イメージが壊れるようなことを言わないで下さい」
「そうですよ、何が起ころうともビクともしない人だって聞いているのに、可笑しいですよ」
二人が口を揃えて言うと、
「やめてよ人を怪物扱いしないで。十年前の私ならともかく、もうそんな若くはないんだって。勢いで突っ走れた時期は過ぎちゃってるのよ。今は貴方達が頼りなんだから三人で協力してやって行こうよ、ね、お願いね」
香織がウインクをして見せた。
「斉藤さん、僕たちが来る前から大分飲んでたでしょ。アイドルオーディションの中学生じゃあるまいし、何をびびってるんですか。斉藤さんの魅力は敵に背中を見せないところなんですよ。弱っちい女の子のふりをしても似合わないんだって」
なおも小沢が被せると、
「じゃぁ何、斉藤は女の皮を被った獅子ってことなの?可愛い子ぶっちゃあ駄目ってことなの?」
香織がふくれっ面になった。
「駄目に決まってるじゃないですか、気持ち悪いですよ」
「ちょっと失礼ね、私だって誰かに頼りたい時はあるんだから」
「斉藤さんに頼られて、踏ん張れる男はいないです」
「もう、なんなのよ」
香織が腕を振り上げて小沢の肩を叩いた。酔ってくるほどに三人のテンションが上がり、テーブルの上は食い散らかしたつまみや菓子袋のクズで山盛りになって行った。外でならしめにラーメンでもというところだが自宅ということで気が緩んだのか香織がソファにもたれて眠ってしまった。
「やっぱり、疲れているんでしょうかね」
康祐が香織を見た。
「そうだと思うよ。いくら斉藤さんと言えども相当なプレッシャーだろうからね。会社の期待を一身に背負っているんだから胃が痛くなるのも無理ないよ」
小沢が香織の顔を覗き込んだ。眠っている時は緊張感から開放されているのか、香織の寝顔は子どものように幼く見えた。
暫く二人で話をしていたが起きる気配のない香織の体に上着を掛け、小沢と康祐はマンションを出た。火照った顔に夜風が気持ちいい。家が方向違いの為、先に小沢の帰る方向でタクシーを待った。小沢を見送ってから反対側の歩道に渡り、ようやく掴まったタクシーに乗り込むと康祐にも大きな欠伸が出た。程よい振動が眠気を誘い、うとうとしていると、
「あれっ、事故でしょうかね」
運転手が声を掛けてきた。腰を浮かして前方を見ると車が何台か連なっている。すれ違う車もないので一時通行止めになっているのかも知れなかった。
「急がれますか?急ぎでしたらバックして違う道を行きますけど」
前方を伺いながら運転手が訪ねた。
「いえ大丈夫です、急ぎませんから」
一度起こした体を戻し、窓の外を見るとシャッターが半分下りている店が見えた。黄色のテントに黒字で「あさひクリーニング」と書かれてある。 見るともなく見ていると中から皿を持った女性が出てきた。店の前で黒い猫が女性を見上げている。えさを待っているのか。目の前に皿を置いてもらった黒猫は勢いよく食べ始めた。野良猫だろうか、お腹が空いているらしく黙々と食べている。しゃがんで猫の様子を見ていた女性が、顔を上げてこっちを見た。
あれっ、どこかで見た顔だな、どこで見たんだっけ。 どこかで会ったような、うーん誰だっけ 康祐の記憶を司る海馬が揺れ動いた。
あっ、そうだ。えっ、まさか!
瞬間、勢いよく体を起こしていた。驚きで口が半開きになる。三年前の出来事が頭の中でフラッシュバックした。雨の森で殺されかけた自分を助けてくれた女性。名前は何だっけ、名前、名前。 えーっと、そうだ、かずね、和音だ。長かった髪は短くカットされていたが、確かにあの時の女性だ。目を凝らし、再度確かめた。間違いない。
「動きましたよ、たいした事なかったようですね」
運転手の声と共に車が動き出した。視界から彼女が消えて行く。一体ここは何処なんだ。このまま行ってしまったら二度と会うことはないかも知れない。
「すみません、止めてください、ここで降ります」
料金を払い、急いで車から飛び出た。駆け足で後戻りし、猫の前でしゃがんでいる彼女の数メートル手前で止まった。止まっては見たものの、どう声を掛けていいのか分からない。気配に気付いた彼女が顔を上げた。康祐を見て客だと思ったのか、
「引き取りですか?」
立ち上がって軽く会釈してきた。しかし自分を見つめたまま動かない男に、少し後ずさりした。
「あ、すみません、怪しい者じゃありません。菱木です、菱木康祐です。覚えていませんか?三年前に、その、誘拐事件の時に、あの、山の中で、車で、助けてもらった」
しどろもどろの説明に、首を傾けた彼女は次の瞬間「あっ」と声を上げた。
「いきなりすみません、お元気でしたか?」
ほっとした様子の康祐に、彼女がコクンと頷いた。
「びっくりしました、こんな所で会うなんて」
言いながら康祐も驚いていた。エサを食べ終わった猫が二人の横を抜けて何処かへ行ってしまった。
「どうぞ入って、あたし、今このお店の二階で寝泊りさせて貰っているんです」
康祐を促し、先に中に入って行った。和音に付いて奥の階段を上がると、小さな台所と六畳くらいの部屋があり、真ん中に卓上テーブル、隅っこに14インチのテレビが置いてあった。
「殺風景でしょ、いつでも出て行けるように何も置いてないの」
小さな部屋が広く見えた。あれから三年経った今もこの人はまだ息を潜めているのか。
「コーヒー入れるから座ってて」
ポットが無いのか小さなラーメン鍋に水を入れ、カセットコンロにかけた。
「よく分かったね、顔、覚えててくれたんだ」
「美人はさ、よく覚えてるんだ」
康祐の言葉に和音がふっと笑った。お湯はすぐに沸き、テーブルの上に形違いのコップが置かれた。
「東京を離れてから、私にお客さんが来たの初めて」
和音が恥ずかしそうに笑った。
「あれからどうしたの?」
「あれからね、ガソリンが無くなったところで車を乗り捨てて電車で大阪に向かったの。顔が腫れてたからすぐには仕事も探せなくてね、しばらくネットカフェで寝泊りしてた。あんたの事はさ、ニュースで無事に戻ったことを知って安心した」
和音の喋り方に康祐は懐かしさを覚えた。
「家に帰ったらお袋が泣き叫ぶんだ。主犯を取り逃がしたことで殺されたと思ったらしい」
「結局、時沢もまだ捕まっていないんだ」
「何処にいるんだろうな」
「土砂降りの山の中に置き去りにされたんだもん、頭に来てるよね。でもよかった、見つかったのがあんたで。時沢だったら何されるかわからないもの」
小さく息を吐くと、カップを両手で挟んで口に持って行った。
「ここさ、時給800円なの。朝はパートのおばさんが来てて、あたしは昼の1時から晩の8時まで。月にして14万位なんだけど家賃が要らないの。チェーン店が5店あって、オーナーが田舎から出て来て最初に始めたのがこの店で、結婚するまでここで過ごしてたんだって。オーナーが出た後二階は物置になってて、ここでよかったら家賃はいらないよって言われてさ、ラッキーって思っちゃった。余分な持ち物もないから一部屋で十分だし、食べるものなんて知れてるし、遊びに行くにも友達もいないし、14万はあたしには有難いお給料なのよ」
和音は自分のことを知る人物が現れて嬉しそうであった。やつれてもいなかったし、日々の生活に不満を持っているようでもなかった。
あの日、時沢から逃げる車の中で会話した、ほんの数時間の印象と変わりない様子に、康祐は妙な安堵感を覚えた。
「あれっ、でも何でこんな所にいるの?」
和音が不思議そうに尋ねた。
「大学を出てから親父の会社に入ったんだけどさ、大阪で店を出すことになってこっちに転勤になったんだ。今は会社の人の家に行った帰りなんだけど、止まったタクシーから外を見ていたら猫にエサをやっている君の姿が見えて慌てて飛び降りちゃった」
「へえ~偶然って凄いね。さっきの猫ね、野良ちゃんでさ、いつも閉店時間になると現れるの。オーナーも猫好きで、あたしがご飯をやっている事を知ってよく缶詰を持って来てくれるの。でもすごい無愛想で触ろうとするとえらい剣幕で怒るのよ。食べ終わるとさっさと何処かへ行っちゃって可愛いのか、可愛くないのかよく分からない」
言いながら、顔が可愛いと言っていた。
「でもさ、あなたのお父さん凄い人だね、世の中不況だっていうのにね」
「自分がつくる店はこれが最後だと言ってる、もう年だしさ」
「ふーん、でもいずれはあなたが後を継ぐんでしょ?」
「多分ね、でもそういうこと考えないようにしている。親父も深刻にならなくていいって言ってくれてるし、成るようにしか成らないもんね」
「金持ちには金持ちの悩みがあるのよね、あたしなんか失うものがないからその点では断然気楽」
愉快そうに笑った。それから思い出したように、
「もしいつか、あんたに出会うようなことがあったら返そうと思っていた物があるの」
押入れを開けてゴソゴソし始めた。
「ああ、あった、これこれ」
取り出したのは小さなお菓子の箱。蓋を開けて中を見た康祐が「えっ?」と声を上げた。あの日別れ際に和音の手の中に押し込んだ腕時計であった。
「こっちに来てすぐなんだけどね、通りがかりの質屋にブランドの時計買い取りしますって看板が出てたから、思い切って入ってみたの。そしたら買い取り価格40万って言うのよ。びっくりしちゃって、そのまま飛び出ちゃった」
「ええ?」
「安いものではないと思ってたけど、まさか40万だなんて。じゃあ元の金額はいくらなんだって話でしょ?これは貰えないと思ったのよ」
「いいじゃん、安いより高い方が」
普通にそう思った。だが和音は首を振った。
「とにかくさ、返す。こんな高いもの持ってると落ち着かないから」
「いらないよ、時計のことなんかとっくに忘れちゃってたしさ。それにほら、今はこれが気にいってるんだ」
言いながら袖口を上げて、左腕にはめられている時計を見せた。
「ふーん、よくわからないけど、これも高そう」
「母親からの就職祝いなんだ」
「へえ~金持ちってさ、何気に高級品を贈るんだよね」
「嫌味?」
「まあね」
「でもさ、ほんとそれはもう僕のものじゃないから君の自由にして。今必要ないなら必要になるまで取っておいたらいい。あの時助けてくれた僕の命、この時計より高いと思うよ」
康祐の言葉に和音の動きが止まった。あの時の光景が蘇えってくる。逃亡中の車の中、二人ともが恐怖の中にいた。二人ともが普通の精神状態ではなかった。二度とあんな経験はしたくない。重苦しい空気が六畳の空間を覆った。
「お茶入れ直すね」
耐え切れなくなって、和音が立ち上がった。
「あ、もう失礼するよ。店のオープン10月1日なんだ、休みの日にでも覗きにきてよ」
名刺を取り出し、裏に自分の携帯番号を書いて渡した。
「何かあったら電話して。当分こっちにいるからさ」
最寄りの駅まで送っていくという和音を断って康祐は一人で店を出た。振り返って「あさひクリーニング」と書かれたテントを見上げる。携帯電話を取り出し、テントに書かれた店の電話番号を記憶させた。
テントの上に小さな窓があった。彼女はあの窓から道行く人を見るのだろうか。視線を店先に移すと、店の隅っこで先程の黒猫がこっちを見ていた。
「おう、なんだお前、まだいたのか」
康祐が近付こうとすると牙をむいて威嚇して来た。なるほど愛想のないやつだ。路地に消えてく黒猫の後姿を見ながら苦笑いしてしまった。 |