| ほころび |
| 次に京子と会った時はホテルを予約して来たと言った。 「家に入ったとたん玄関で仁王立ちしているの。迷惑だからもう来るなって大声で怒鳴ってさ、あんたの怒鳴り声で子供が起きるじゃんって話でしょ?。面倒臭いからもう行かないことにしたの」 ケラケラと声を上げて笑った。一ヶ月前に無理矢理タクシーに押し込まれたことなど気にもしていない様子で、案の定、食事が終わると飲みに誘って来た。 「食事だけという約束だろ、こちらも約束を守っているのだから、そちらも守ってくれないか」 康祐の不満に、 「なにケツの穴の小さいこと言ってるのよ、月に一度なんだから」 京子は取り合わなかった。しかしその日の京子の飲み方は以前にも増して異常で、会った時から妙な企みを感じていた。酔うほどにテンションが上がり康祐にやたら触って来る。酔いを装っているのか本当に酔っているのか、明らかに正常なカップルでない様相に、店員同士が迷惑顔で目くばせしていた。 一方的に喋り続けていた京子がやがて酔いつぶれて動かなくなり、店に頼んでタクシーを呼んでもらった。タクシーの中で京子は康祐にもたれかかったまま一度も目を開けなかった。 「着いたよ、歩けるかい」 タクシーから京子を降ろし体を抱きかかえた。引きずって行かなければならないかと思いきや、康祐の肩にもたれてはいるものの以外に足取りはしっかりしていた。フロントで鍵を貰いエレベーターに乗ると、部屋は開いた扉の斜め前にあった。中に入って京子をベッドに下ろし、ドアの方向に歩こうとした時、後ろから思い切り腕を掴まれた。 「帰らないで!」 酔っているとは思えない強い力。びっくりして京子を見た。 「離してくれ、そういう約束じゃないだろ」 「お願い、今夜だけ、今夜だけでいいの。もう二度とこんなことしないから」 ベッドを下りて康祐に抱きついて来た。しかし今ここで京子の誘いに乗るわけには行かない。 「君は今正常ではない。お酒が入っていない時に一度きちんと話し合おう。とにかく今日はこれで帰る。明日電話を入れるから」 しがみつく京子を振り切ってホテルを出た。限界だった。中途半端なことをしていたと思った。京子の想いを分かっていながら京子の気持ちを無視していた。ごまかしがいつまでも通用するはずがない。こうなった以上和音のことを打ち明けよう。誠意を持って話せばきっと解ってくれる。解って貰えるまで話すしかないと思った。 京子が東京に帰るまでに会って話さなければならない。朝になるのを待って携帯に電話を入れた。 「菱木です」 「話があるんだ、今から会ってくれないか」 「聞いてもらいたいんだ、君に謝りたいことがある。すぐに行くからそこにいて欲しい」 「頼む。20分ほどで着くと思うから・・」 返ってこない返事を無視し、康祐はタクシーに飛び乗った。タクシーの中から店に電話を入れ出勤が遅れることを伝えた。ホテルに着いた時、京子はカウンターでチェックアウトしていた。清算を終えて振り向いた京子が、すぐ後ろにいる康祐を見て驚いた。 「ごめん、どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ」 逃げようとする京子の腕を掴み、そのまま引っ張ってロビーの椅子に座らせた。 「あの人のことなんだけど」 勢い込んで話しかける康祐に、 「すみません、急いでいるんです、約束があって」 体を浮かせ、逃げようとする京子。 「あの人とは去年、僕がこっちに来てから偶然出会ったんだ。君の告白を断る原因ではない」 なおも京子の腕を離さないでいると、 「菱木さん、もういいんです、もう大阪へは来ません。会社も辞めますから安心して下さい」 思わぬ言葉が返って来た。 「最初から分かっていました、菱木さんが私なんかに何の興味もないこと。でも心のどこかで、もしかしたらって、何パーセントかの望みをかけて頑張ってみたんです。あのトレーナーね、何件も回って菱木さんに似合いそうなのをやっと見つけんです。でも見事に捨てられちゃった。喜んでもらえると思ってたから凄くショックだった。せめて家に帰ってから捨てて欲しかった」 京子が無理やり手渡したトレーナー。迷惑だと思った。タクシーを見送ってから捨てたつもりだったが、去り行くタクシーの後ろから捨てたところを見ていたのだろうか。悪いことをしたと思った。 「でもいいの、もう吹っ切れました。菱木さんの中にはあの人しかいないということが分かったから。あの人は菱木さんにとって、なくてはならない人なのよね」 京子の言葉を聞きながら力が抜けていくのを感じた。 「ごめん、今まで君を無視していたこと、悪かったと思っている。謝って済むことじゃないかもしれないけど、心から謝りたい」 康祐は土下座をしてもいいと思った。 「いいのよ謝ってなんかくれなくても。私も菱木さんにいけないことしちゃったから」 急に京子が妙な薄笑いを浮かべた。 「私、菱木さんのこと諦めたけど嫌いになったわけじゃない、まだ好きなの。好きな人が振り向いてくれない辛さって菱木さん分からないでしょ?菱木さんを失うのはやっぱり辛い、だからその辛さがどんなものであるか、菱木さんに教えてあげようと思ったの」 「?」 「菱木さんからの電話の後、警察に通報しました。誘拐犯がクリーニング屋さんに居ますよって。今頃あの人、手錠をかけられるところじゃないかな」 康祐の体が一瞬で凍りついた。勝ち誇ったような京子の白い顔。驚きで声が出ない。一歩二歩、後ずさりしながら頭の中をフル回転させた。冷静に、冷静に、パニックになってはいけない。 そのままホテルを飛び出て、携帯を出すのももどかしく震える手でボタンを押した。早く、早く出るんだ。 「はーい、和音でーす」 のんびりした声が返ってきた。 「和音、今どこだ!」 「今ねえコンビニなの、牛乳を切らしちゃって、ついでにプリンも買っちゃった」 「そんな事どうでもいい!」 「何怒ってるの?すぐ店に帰るよ」 「だめだ店には戻るな、警察が来ている。そのまま反対方向に走れ。来たタクシーに乗って僕のマンションに行くんだ。僕もすぐそっちに向かうから」 客待ちのタクシーに飛び乗ってマンションに向かった。信号と渋滞に悩まされながらマンションに辿り着くと、入口横の植え込みの影から和音が飛び出して来た。顔色がない。 「何故、部屋にいないんだ!」 「鍵を持って出てないの」 怯えた声が返ってきた。肩を抱いて部屋に入り、小刻みに震えている和音を落ち着かせるため熱いお茶を飲ませた。 「僕を快く思っていない人間がいてね、和音の事を知って警察に通報したんだ。もうあの店には戻れない、分かった?」 康祐は和音を連れて逃げようと思った。一人で逃がすことは和音を見捨てること。そんな卑怯な真似はしたくなかった。 「店長に話をしてくる。帰ってから一緒にここを出よう。必要そうなものここに詰めておいて」 小さめの旅行鞄を取り出し、和音に押し付けた。 「誰が来てもドアを開けてはいけないよ。間で何回か電話を入れるからね。なるべく早く帰ってくるから少しだけ待ってて」 突っ立ったまま動かない和音の腕を掴み、 「すぐに帰るからさ」 掴んだ腕をさらに強く握った。 「康祐、もういい、もういいよ」 それまで黙っていた和音がボソッとつぶやいた。 「いつか必ずこういう日が来ると思ってた。康祐を道連れにするわけにはいかない。あの時も一人で切り抜けて来たんだから今度も大丈夫、康祐が店に行ってる間に出て行くから心配しないで。あまり急だったからちょっと動揺しただけ、ほんと一人で大丈夫だから」 無理に笑った顔が歪んでいた。店に行っている間に本当に出て行ってしまうかも知れない。このまま和音を置いて出て行けないと思った。 「じゃあ、今から一緒に出よう」 和音の手を引っ張って歩きかけた。 「本当にいいって!」 康祐の手を払い、玄関に走った。慌てた康祐が和音の前に回り込み、 「大丈夫だって、心配しないで。和音を一人にさせないから、僕を信じて」 興奮している和音を部屋の中に連れ戻し、力いっぱい抱き締めた。 「今度のことは僕に責任がある。僕がしっかりしていればこんな事にはならなかった。隙を見せた僕が悪い、だから僕には和音を守る義務がある」 康祐の言葉にこらえていた感情が溢れ出し、大粒の涙が零れ落ちた。 「とにかくここを出よう」 和音が落ち着くのを待ってマンションを出た。新大阪駅に向かうタクシーの中で、和音は康祐の手を握って離さなかった。
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| 1 誘 拐 | 2 逃亡のはじまり | 3 元気でね | 4 社会人 | 5 父のこと | 6 新生活 | 7 オープンに向けて | ||||||
| 8 初デート | 9 新 年 | 10 古 巣 | 11 後 悔 | 12 ほころび | 13 二人の生活 | 14 失 意 | ||||||
| 15 新しい命 | 16 中 絶 | 17 決 断 | 18 別 れ | 19 友 人 | 20 再出発 | 21 運命の日 |