新しい命  
   少し離れた所で親子連れが中型の犬と遊んでいた。子供が犬と追いかけっこをしながら大声で叫んでいる。昔の和音なら、
「何が家族よ、ちゃらちゃら幸せぶってんじゃないよ」
 と、嘯いたかも知れない。しかし今、目の前の幸せを見ながら素直に素敵な家族だと思える。
「クロちゃんどうしてるかな、元気でいるかな」
 心の拠り所だったクロのことが思い出された。
「大丈夫だよ、オーナーが約束してくれたんだから」
「そうだよね」
 康祐がクロの存在を無視することなく、やさしく見守ってくれたことも和音には嬉しいことであった。
「あたしさ、今度生まれ変わったらお金持ちの猫がいい。毎日だらだらしてても時間がくれば美味しい食事を与えられて適当に飼い主にすりすりすると、おおいい子ね、なんて褒めてくれる。こんな素晴らしい一生ってないでしょ?」
「犬は駄目なの?」
「犬は駄目、お手だとかお座りだとか色々やらされるじゃない。ご飯を目の前に置かれて待てとか言われて、よだれを垂らしながら待つのは嫌だ」
「でも一緒に遊んだり、協力して何かを成し遂げたりして飼い主と喜びを感じ合えたりするよ。飼い主に褒められるって犬には最高の喜びじゃん」
「うーん、そうか、そうねえ。じゃあ犬でもいいか」
「単純だなあ」
「まあね、ゴキブリ以外だったら何でもいいかも」
「ゴキブリはちょっと辛いものがあるな」
 康祐が笑った。自分の横に康祐がいる。曇りのない優しい目で話しかけてくれる。夢ではないのだ。瞬きをすればこの現実が幻に変わってしまいそうで怖い。康祐の存在を確かめるようにそっと腕を絡め、その肩にもたれながら幸せの味を噛みしめていた。

 康祐の苦手な夏も過ぎ去り、気が付けば秋の風が吹き始めていた。ある日の夕食後、和音が言いにくそうに話をし出した。
「康祐さ、子供好き?」
「子供?」
「うん、赤ちゃんとか」
「赤ちゃん?」
 寝そべってテレビを見ていた康祐が体を返した。
「何言ってんの?」
「別に、ただどうかなって思って」
「何?赤ちゃんが欲しいの?」
「そうじゃないけどさ、今赤ちゃんが出来たら康祐どうするかなって」
 うつむく和音に、
「えっ、まさか!」
 起き上がって和音の腕を掴んだ。
「出来たの?やったね、いつ生まれるの?」
「わからない、医者に診てもらってないから」
「そうか、いや、いつだっていいんだ。無事に生まれればそれでいいんだ。パパだよ、俺パパになるんだ。すごいよパパだよ」
 康祐は大喜びであった。しかし、
「籍、どうするの?」
 和音は浮かれてはいない。
「籍?」
「だって私生児になるわけでしょ」
 突風に煽られた気がした。考えても見ないことであった。
「籍、ああそうか、籍か、そうだよな。えっと、まず僕の住民票をこっちに移して、それから和音の籍を入れて、子供が生まれたら出生届を出して、あっ駄目だ駄目だ。和音の籍を入れれば和音の居所が分かっちゃう。でも出生届を出さないと子供は学校にも行けないんだよな」
 康祐が首をひねった。
「康祐」
「あれっ、じゃあ、どうすればいいんだ。とりあえず子供だけを先に認知すればいいのか。そうじゃないのか?えっ、どうなってんだ?こういうことはどこで調べればいいんだ。役所で聞けばいいのか」
「康祐、あのさ」
「あ、ダメだダメだ。役所で事情は言えない。ややこしい事になったらそれこそ大変だ。じゃあどうしたらいいんだ。何か方法があるはずだ。ゆっくり、ゆっくり考えよう。焦ってはろくなことにならない。大丈夫、大丈夫、落ち着いて、落ち着いて考えよう」
 予想以上の康祐の焦り方に和音が戸惑った。無理なことは最初から分かっていた。言わなければ良かったと思った。
「ごめん康祐、嘘よ嘘。ちょっとからかって見ただけ、びっくりした?」
 手を左右に振って、半笑いでごまかした。
「嘘?」
「ごめん」
「ええ?」
「だから、ごめん」
「何だよやめろよ、嘘かよ。まったく、何考えてんだ」
「だって康祐、もう秋だというのに未だに暑そうにしてるから、ちょっと涼しくしてあげようと思ったのよ」
「何言ってんだびっくりさせるなよ。冗談じゃない、悪趣味もいいとこだよ」
 拗ねて畳に転がった。医者に診てもらってないと言ったが、市販の妊娠検査薬で陽性反応が出ていた。メーカーの違う検査薬で再度試してみたが結果は同じだった。大好きな康祐の子供、産みたいけれど許されない。 子供が生まれれば康祐は責任上認知してくれるだろう。しかし自分の名前を康祐の戸籍に入れることなど出来る筈がなかった。康祐を苦しめたくない、生まれてくる子供にも苦しみを与えたくない。自分の今の望みは康祐といられること。欲張って両方を失うことの方が怖い。子供は諦めよう。しばらくは胸が痛いかも知れない。でも康祐がいればその辛さも乗り越えられる。そう思った。
「先に風呂入るね」
 康祐の肩を叩き、着替えを持って風呂場に向かった。湯船につかりながら涙が溢れてくる。シャワーを出して声を殺して泣いた。溢れ出る涙と共に自分の犯した過ちも洗い流してしまいたい。風呂から上がり、
「大丈夫よ康祐、あなたが困ることはしないから」
 テレビを見ている康祐の背中につぶやいていた。

 次の日の朝、洗濯物を干している和音の下腹部に痛みが走った。どうしたのかなと思いながら、すぐに治まったので気にしないでいた。アパートを出ていつもの道をいつもの足取りで歩く。前方の信号が青に変わったので少し歩く速度を速めた。
 と、道路の向こう側で、人待ち顔で立っている男の姿が目に入った。
「えっ!」
 男の顔を見てびっくりした。心臓が止まるかと思った。慌ててすぐ横の電柱に身を隠した。 あの日、大雨の森に置き去りにした時沢であった。腕時計を見ながら時間を気にしている。時沢のことは今ではもう完全に和音の頭から消えていた。それなのに、何故今頃になって。
 旅行をしている風体ではなかった。血の気が引き体が震えた。そのまま後ずさりして別の道を急いだが、仕事中も時沢のことが気になり、男性の客が入ってくる度に身が縮んだ。いつもはあっという間の5時間がとてつもなく長く思え、仕事が終わってからはどこにも寄らず真っすぐアパートに帰った。
 和音の脳裏にあの日の出来事が蘇って来た。降りしきる雨の中、康祐と夢中で逃げた。元の場所に戻って来た時沢はすぐには何が起きたのか理解出来なかったことだろう。車が消えた場所に残されたタオルケットとシートカバーとシャベルを見た時、自分を裏切った和音への怒りが吹き出たに違いない。真っ暗な山道をひたすら歩き続けた時沢の怒りがどれ程のものであったか、想像するだけで背筋に冷たいものが流れた。

「何かあった?」
夕食時、生返事ばかりの和音に康祐が怪訝そうな顔で聞いてきた。
「えっ、あ、うん、別に」
「何だよ」
「うん」
「いいなよ、黙ってると体に良くないよ」
「うん」
「だから、言ってみなって」 
 康祐に促されて、和音は持っていた箸と茶碗を置いた。
「あのさあ、康祐、時沢って覚えてる?」
 和音の言葉に康祐の箸も止まった。
「時沢にさ、会ったの。 仕事に行く途中の信号で人を待っている様子だった。すぐにUターンしたから向こうは気付いてないと思うけど、びっくりしちゃって」
「時沢かぁ」
「何でだろ、何で時沢がこんな所にいるんだろ」
「本当に時沢だった?似た人じゃないの?」
「間違いないって」
 唇が震えていた。気にしなくていいという問題ではなかった。今更、和音の口から時沢の名前を聞くのも驚きだった。
「じゃあさ、明日同じ時間に二人で行って見ようか」
 もう一度時沢を見るのは怖い。しかし本当にその男が時沢だったら、もうここには居られない。
「二人で協力してこれからのことを考えよう。時沢がこの近くに住んでいても住んでいなくても、和音が気になるようだったら何処か違う所に引っ越せばいい。どこに行っても働く所はあるんだからさ、怖がる必要はないよ」
 今にも泣き出しそうな和音の手を掴み、力を入れて握り締めた。